「休戦記念号」は第一次大戦終了の際フランスが対独休戦協定を結んだオリエント急行食堂車である。 19世紀初めに生れた新しい交通機関は瞬く間にヨーロッパに広がり、19世紀末から20世紀初頭までに鉄道網はヨーロッパ中を国を越えて結ばれていた。その花形はオリエント急行でパリをでた国際急行はミュンヘン、ウイーン、ザグレブ、ベルグラード、ソフィア、イスタンブールと走りぬけ、人びとのオリエントへの憧れと夢を乗せ黄金期を迎えていた。しかし1914年勃発した第一次大戦はオリエント急行の沿線を凡て戦場化としてしまった。パリから毎日発車していた急行は無期運休となり、食堂車、寝台車はドイツ軍側やフランス軍側に、食堂車は野戦軍団の司令として接収、また寝台車は傷病者の病院車に徴用されていった。 4年にわたる戦争がドイツの敗戦で終わり、フランスの対独休戦協定はパリ郊外のコンピューニュの森の中に停車していたフランス軍野戦移動司令部として活躍していたオリエント急行の食堂車を使用して調印された。フランスは対独戦勝の記念としてコンピューニュの森の中にこの食堂車を飾った。 |
時代は下って第二次大戦下、1945年5月フランスはドイツの電撃戦で短期間で敗れ、パリは無防備都市宣言し講和を結ぶことになる。 ヒトラーはを対仏休戦条約を結ぶ場所としてフランスが第一次大戦戦勝記念としてコンピューニュの森に展示されている「休戦記念号」の食堂車指定し、この中で調印を行い第一次大戦の復讐を果たした。 (この時のエピソードとして以下の小咄が流行ったと伝わっている。余裕のヒトラーがフランス代表に「コーヒーが宜しいですか、それとも紅茶で」と言ったら、フランス代表は「お茶の方をーLieber Tee→Liberté 自由を」と答えたという) 「休戦記念号」は戦勝記念としてベルリンに牽引した。そして大戦末期戦局の悪化に伴ないヒトラーの命令で爆破された。ドイツの敗戦に際しフランスにまた使用されることを恐れたのであろうか。独仏の確執の間で栄光と悲劇的な運命を辿った「休戦記念号」も今はない。コンピューニュの森にある休戦記念館にあるものは同型のレプリカである。 |