ルィーゼ・フォン・プロイセン

ルィゼ フォン プロイセン 1989年発行 ドイツ史上の女性シリーズから

ルイーゼ・フォン・プロイセン
1776〜1810 (フリードリヒ・ヴィルヘルム3世王妃)才色兼備、愛国者の誉れ高い王妃として知られる。

19世紀初頭、ナポレオンが率いるフランス軍がヨーロッパを席巻し、神聖ローマ帝国は終焉を迎えていた。1804年、ナポレオンはフランス帝国となり、今やフランスになびかないのはイギリス、ロシア、プロイセンだけとなっていた。
1806年、傘下に入ることへの恐喝とフランス軍のプロイセン領域を侵す示威により、フリードリッヒ大王以来強力な軍団を有するプロイセンはその矜持もあり、ナポレオン軍に挑むことになる。
しかし、不敗伝説を持つプロイセン軍もイェーナとアウェルシュテットの戦いに大敗を喫し、国の東端まで追い詰められ、国土の半分を奪われることになる。

1807年、テルジットの和約において国王はまったく頼りにならないので、大臣ハルデンベルクはルィーゼをナポレオンに会わせ望みを託した。絵葉書 1807年テルジット  ナポレオンとルィーゼ王妃ルィーゼは夫に代わって交渉に赴き、その不屈の意志により、ナポレオンをして「プロイセンの雌豹」と言わしめている。実のところプロイセンの挑戦は彼女が陰の仕掛人とナポレオンは見ていたのである。
交渉そのものでナポレオンの意志は変えられなかったが、王妃の立派な態度はナポレオンに感銘を与えている。彼女はプロイセンの愛国者たちの崇拝を集め、敗戦にある国家の崩壊をぎりぎりのところで防いだと評価されている。国の存亡の淵からシュタイン、ハルデンベルクらの優秀なプロイセンの官僚たちは国家体制の改革に取組み、後のナポレオン解放戦争へと繋げるのである。


ナポレオンと会見は歴史に名高いエピソード 頁末の註4参照



 ルイーゼは1776年3月10日、ハノーヴァーで5人姉妹弟の三女として生まれた。 父親はハノーヴァーにてイギリス王家の代理人を勤めていたメックレンブルク公カール・フォン・メックレンブルク・シュトレリッツ、母親はヘッセン・ダルムシュタット公女である。母親の死もあって幼少時代から少女期をダルムシュタットの母方祖母の下で育つ。

 1792年16歳の時、父親のメックレンブルク公は娘達の婿探しにルィーゼと2歳年下の妹のフレデリーケを共にフランクフルトへ出て来ている。神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世(後にオーストリア皇帝フランツ1世)の戴冠式に出席し、ルイーゼは社交界にデビューした。そこで後にオーストリア宰相になる若き日のメッテルニヒ(19歳)と宮廷のホールでファストワルツを踊っている。二人はダルムシュタットの祖母同士が友人であったので、幼い頃からの知り合いで二人とも美貌の持ち主であった。舞踏会の舞踏始まりのダンスは若い美男美女が指名されるのが常であったのである。

 1793年フランクフルトにおいてプロイセン皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム(3世)とお見合いをする。予めお膳立てされていたもので、既に二人の結婚は決定されていた。その年のうちにルイーゼはF・ヴィルヘルムと結婚することになった。ルイーゼの妹フレデリーケも、F・ヴィルヘルムの弟ルードヴィヒと婚約したので、この仲の良い姉妹は揃って、プロイセンに向っている。

東ドイツ1989年発行シャドウ生誕225年 ルィーゼ    東ドイツ1989年発行シャドウ生誕225年 妹のフレデリーケ

シャドウ制作ルィゼとフデリーケ

 結婚を祝して、当時の著名彫刻家ゴットフリート・シャドウ Johann Gottfried Schadow(1764-1850)は両妃の彫刻を作成している。体の線が透けるような両妃の立像は官能的だとして、彼女の夫となる皇太子ヴィルヘルムは公開を禁じたのことである。
上掲のシャドウ生誕225年の東ドイツ切手のデザインはこの像から採っている。


1797年、夫、F・ヴィルヘルム3世がプロイセン王に即位し、ルイーゼはプロイセン王妃となった。大人しく、平和主義の夫の下でルィーゼの興味の対象はダンスであり、ファション、芸術であった。しかし、難しい時代は彼女を安寧な宮廷生活に身を置くことを許さなかった。フランス革命に続くナポレオンのヨーロッパ支配であった。ルィーゼは王妃として国政の舵取りに苦悩する夫の有能な助言者なっていた。

 1810年7月、ルィーゼは4年後のプロイセン領土の復帰を見ることなく、肺炎のため世を去っている。ルイーゼの次男が後にドイツ初代皇帝(第二帝国)となるヴィルヘルム1世である。娘シャルロッテはロシアのニコライ一世に嫁いでいる。

WEBで絵葉書サイトなどを見ると、ルイーゼ王妃を記念する像、建築物は旧プロイセン領内を中心に多くあったらしい。第二次大戦後旧プロイセン領はソ連領、ポーランド領になり、現存するか不明であるが、ベルリンの森林公園ティアガルテンにはルィーゼ王妃の白い立像が今でも毅然と立っているそうだ。

註1)神聖ローマ帝国
中世に現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部の地域に東フランク王国の後継を意味する大小の国家連合体。初めから、神聖ローマ帝国と呼ばれたわけではなく、公式に名乗るのは13世紀になってからである。15世紀後半からは「ドイツ人の神聖ローマ帝国」とよばれる。ドイツ民族が支配的民族というわけでなく、帝国の意識はキリスト教のヨーロッパの国である。その後イタリアなどの支配を失い実質ドイツ地域に限定されてしまい、18世紀には「ドイツ帝国」とも呼ばれる。ハプスブルク家が世襲的に皇帝を独占するころには帝国も権威が落ち、形骸化しつつあった。

註2)プロイセン
エルベ川とオーダー川の間に発展してきた「ブランデンブルク辺境伯国」と神聖ローマ帝国域外でバルト海沿岸部にあるドイツ騎士団領を元とする「プロイセン公国」とが相続によって結ばれた公国で、スペイン継承戦争の際神聖ローマ帝国に8千の軍団を提供、その見返りに王国に格上げされている。第二次大戦後はドイツ侵略戦争の元凶としてプロイセンは領域とともに名前も消滅させられている。

註3)メッテルニヒ
ナポレオン戦争後、勢力均衡の思想で外交を展開し、ヨーロッパの秩序を回復させた人物。歴史的には民主主義を後退させた反動政治家として一般に知られるが、近年見直しがなされ再評価されている。 (政治史ではメッテルニヒ→ビスマルク→キッシンジャーの流れである)

註4)ナポレオンが「なぜこんな無謀な開戦をなさいました」と問いかけると、王妃ルィーゼは「フリードリヒ大王の声名が、つい私たちの力を過信させました」と答えた。この短いフレーズは歴史的に名句として伝わっている。万感の思いをを秘め、しかし媚びることなく発した言葉にナポレオンはハッとしたのかも知れない。ナポレオンは軍人シーザーと共にフリードリヒ大王を尊敬していた。今少年時代よりの憧憬の人であった大王の国を攻め勝利者となった。一介の軍人上がりに過ぎない身と、偉人大王を父祖に持ち綿々と続く名家ホーエンツォルレルン家の王妃の凛とした姿に一瞬コンプレックスを感じたのかも知れない。一片の詩のような言葉の持つ意味に理解と感動を文学好きナポレオンに与えたものの政治家ナポレオンは現実主義者プロイセンに対し甘くなることはなかった。

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