ドイツ騎士団
ドイツ騎士団、あるいはゲルマン騎士団、あるいはチュートン騎士団。西暦1198年にローマ教皇より宗教騎士団(僧兵団)として認められ、白衣に黒十字を描いた制服で知られた。もともと聖地エレサルムへ遠征した十字軍の一部隊であったのだが、主たる活動の舞台はバルト海沿岸、つまりヨーロッパの東北辺境であった。異教徒であるゲルマン、スラブ人たちに、かなり強引なやり方でキリスト教を布教しつつ、領土を広げ、交易も盛んにおこなった。武装した宗教団体であり、後世のドイツ東部、ポーランド、バルト三国にかけて広大な領土を持つ半独立国家であり、巨額の富をかかえる国際的な大企業であった。その繁栄は十四世紀には絶頂に達したが、西暦1410年、グルンヴァルトの大会戦に大敗して以来、急速に衰えた。1492年の頃はポーランド国王の宗主権のもとで東プロイセン地方だけを領有するようになっている。
プロイセンはブランデンブルク選帝候国とドイツ騎士団領がもととなった領邦である。ホーエンツォレルン家が支配していたブランデンブルク選帝候国は、エルベ川以東のスラヴ人の侵入に備える地にあった。ドイツ騎士団領は、13世紀頃からのバルト海沿岸の植民活動で形成され、スラヴ人の攻撃に対する防衛線としても機能していた。ドイツ騎士団領は後にプロイセン公国となり、1618年、ブランデンブルク選帝候国と合併してブランデンブルク・プロイセンが成立した。 1640年にプロイセン首長の座に着いたフリードリヒ=ヴィルヘルムは、官僚 制を整えて常備軍を組織し、絶対主義への道を開いた。次のフリードリヒ1世 は財政改革や常備軍の拡張などを行った。また、スペイン継承戦争で皇帝を援 助した実績を評価され、1701年にプロイセンはプロイセン王国に昇格した。
その次のフリードリヒ=ヴィルヘルム1世は、有力貴族の抑圧し、ユンカー (在地の貴族)に国内支配の基盤をおいた。ユンカーは中世的には騎士階級 で、官僚や軍隊の中心を担っていた。また、国内産業の発展を奨励し、7万に のぼる兵力を養成して軍事国家としての基礎を確立した。これは、当時のプロ イセンの勢力範囲と国力からすれば破格の軍事規模であった。 そのあとを継いだのがフリードリヒ2世である。彼は啓蒙君主の代表的人物 である。彼は、その著書「反マキャベリ論」の中で「君主は国家第一の下僕で ある」と称した。また、自らが造営したサン・スーシ宮殿にヴォルテールらを 招くなど、最先端の思想との交流も行った。
その頃、オーストリアではカール6世が実子に王位を継承させるために女性 の王位継承を可能と定め、マリア=テレジアが王位を継承した。しかし、バイ エルン・ザクセン・スペイン・フランスがこれを認めず介入し、オーストリア 継承戦争が起こった。フリードリヒ2世はこれに便乗して参戦し、領土拡張に 成功した。オーストリア継承戦争は1748年のアーヘンの和約で終結し、結局マ リア=テレジアの王位継承が承認された。 1756年、マリア=テレジアは7年戦争を起こしてプロイセンへの復讐をは かった。7年戦争時のオーストリアはロシアと宿敵のフランスとも同盟を結 び、プロイセンを包囲した。オーストリアととフランスとの提携は画期的で、 外交革命ともよばれる。イギリスの財政的援助を受けたプロイセンは、緒戦こ そ優勢だったが次第に劣勢となり、ベルリンを占領されるなど苦戦を強いられ た。1762年、ロシアの皇帝が変わり、これを期にロシアはプロイセン包囲から 脱落した。これによって戦況が逆転し、プロイセンが勝利を収めた。1763年に フベルトゥスブルク条約でシュレジエンを確保したプロイセンは、列強の仲間 入りを果たした。