オーストリアの国有化記念切手

どの国にもその発行に込められた思いを強く感じる記念切手があります。ここに掲げたものは1961年から1972年かけて発行されたオーストリア産業国有化15年、電力事業国有化15年と産業国有化25年、電力事業国有化25年を記念切手17種の内の5枚です。「何故国有化か」その辺りの発行意図を探り、独断と偏見で雑文を書くことにしましょう。

オーストリア産業国有化15  オーストリア産業国有化15  オーストリア産業国有化15

産業国有化15年、(1)発電機回転子、(2)溶鉱炉、(3)石油精製

電力事業国有化15年  電力事業国有化15年 

電力事業国有化15年、(4)タウエルンの貯水池、(5)エンス発電所

ご承知のようにドイツは戦後、米ソの冷戦下ドイツは東ドイツと西ドイツに分断されていました。オーストリアが分断国家になるのを回避できたのには何があったのでしょうか。オーストリアは1938年ナチス・ドイツに併合され、第二次大戦に突入し、ドイツと運命を共にします。戦後、ドイツのように国土を分割される危険とソ連により東欧化される危機が存在していました。

大戦末期の4月11日東部よりソ連軍がオーストリアに侵攻し、遅れて西部から英米軍が侵攻して英米仏ソの連合国によって分割占領されました。(ウィーンもベルリン同様に四国の共同管理となります)ソ連の占領は他の三国より早く、その地域はウィーンを含む東部で、オーストリア全域の共産化を視野に入れていました。ソ連は西側と異なるイデオロギーと社会制度を有しており、それにより領土拡張主義国家でもありました。ソ連の野望はヨーロッパを共産化するために、可能ならば破壊活動、必要ならば軍事占拠も辞しませんでした。

英米仏ソ四国分割 

1945年4月末、ソ連占領区内の四国共同管理のウィーンでソ連の後ろ盾でカール・レンナーを首班とする臨時政府が発足しました。 当時、カール・レンナーはナチス・ドイツの占領時代の経緯でソ連と英米の両陣営は「信頼のおける人物」とは見ていませんでした。ソ連はウィーンで隠遁生活をしていた彼を担ぎ出し、操り人形とし、合法的な手続きでオーストリアを支配下に置こうとの思惑であったのでしょう。そのため、西側陣営からはこの臨時政府はソ連の傀儡政府と見なされていました。したがって、新政府は直ぐには西側に承認されず、その力はウィーンの外側には及びませんでした。1945年11月、カール・レンナーはソ連の了解のもとに、しかし監視を巧みにかわし、他の英米地区の州と語らい、各政党の団結のもとに総選挙を行います。そして共産党を無力化することに成功しました。西側からは安堵、驚きの目で見られます。カール・レンナーの老獪な指導でソ連に一杯食わせたのです。

それ以後、ソ連は駐留する東欧にて自由選挙を認めず、軍事力を背景にポーランド、ハンガリー、チェコなどの国々を順次、暴力、テロによる共産政権の樹立を進めます。そして、ギリシャ、オーストリアを除いた中欧、東欧はソ連の支配下に入りました。

とりあえず、共産化を回避したオーストリアですが、危機は続きます。賠償問題です。 英米仏とソ連は戦後処理の違いから対立が生じていました。独ソ戦で甚大な損害をこうむったソ連はオーストリアに賠償金を要求し、英米側は賠償金の請求をしないとしていました。ソ連は対ドイツの賠償金として、オーストリア内にあるドイツ在外資産を当てると主張し、英米の了解を取り付けていました。そして、戦前・戦中の所属、ドイツ資産、オーストリア資産に関係なく、ドナウ汽船など殆どの産業、工場、農地などを差し押さえ、機械類を運び出していました。

新政府はできるだけ多くの産業を救うべく「国有化法」を議会で通過させます。オーストリア新政府の制定した法律は占領軍の新しい協定で「英米仏ソ四国全員の一致の反対がない限り発効する」と言う条項で、国有化法は成立します。(一国の単独拒否権は廃止されていたことを意味します)  資産の所属を新政府にすることで、三大銀行、電力産業、重要な炭鉱、原材料産業などの企業を救うことに成功しました。ソ連にとっては目論見が外れ、皮肉な結果になったのです。

しかし、ソ連占領地域では「国有化法」が当然ながら有効に機能しませんでした。ソ連に押さえられた産業が生産した消費財、資材はソ連に送られるか、他で売却されオーストリア国民にはまわってきません。オーストリア国民必要物資は他国より輸入しなければならないという不条理でした。ソ連の会社は治外法権を有し、オーストリア政府に税金すら払わなかったのです。このような状況は占領が終る1955年頃まで続きます。

もし、ソ連に産業の凡てを押えられていたら、オーストリアの経済自立は覚束なかったに違いなく、経済の圧迫によりソ連の支配下に組み込まれたかも知れません。オーストリア国民にとってこの「国有化法」の成立は国の存立をも左右したものであったのです。

カール・レンナー 

カール・レンナー(1968 共和国建国50年

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