表題は初代世話人の故牧泰久氏が部会報第42号に掲載したもので、「切手でたどるドイツ統一への歩み」で言及している通貨を解説しています。統一以前のドイツの貨幣単位は独立した領邦が多く存在していたので複雑だったのですね。
ドイツ帝国の統一切手は1872年に発行されています。
その額面は2種類で1から6迄がGr(グロツシェンの略) 7から11迄がKv(クロイツァーの略)です。このような順序が1874年発行の切手迄つづいています。
この様な順序は、北ドイツ郵便連合やトウルン・タキシスの切手にも現われています。普通こういう風に並べられると、グロツシェンの方が貨幣表示としては下で、その上の単位がクロイツァーと考え勝ちです。日本のカタログは銭から円へと、アメリカならセントからドルヘと並んでいますから。
ところがドイツではそうではなくて一つの国の中で (正確にいえば一つの郵便制度の下で) 二つの異った貨幣制度が存在していたのです。少し時代を遡るともつと多くの貨幣制度が併依していました。そのことはステーツの切手バーデン、ハンブルク、ザクセン等の所を見て下さい。実にいろいろの額面が出て来ます。
ドイツの統一の足取りを切手に関係の深い貨幣制度から見ようというのがこのお話しです。ステーッの切手など高すぎて手が出ないという方もいらつしゃるでしょうが、ドイツの歴史物語のつもりで読んで頂き度いと思います。
ドイツの中で一番始めに切手を出したのはバイエルンで1849年のこと、イギリスより遅れること9年でした。その頃ドイツ( 後のドイツ帝国と考えて下さい )では大体次の6の系統の通貨がありました。
1.南部および若干の中部におけるグルデン銀貨制
主な邦はバイエルン、バーデン、ヴュルテンベルクで、1グルデンは60クロイッアーでした。又トウルンタキシス家が郵便業務を行っていたヘッセン大公領、ナッサウ公領、チューリンゲン南部の小領邦も含まれます。
2.北部及び中部ドイッの大部分のターラー銀貨制
主な邦はプロイセン、ザクセン、1858年以降のハノーファー、オルテ'ンブル
ク但しこれらの邦ではターラー以下の貨幣単位は同一ではなく、
a) プロイセン
1ターラーは30ジルベルグロツシェン
1ジルベルグロツシェンは12フエニヒ。
b) ザクセン
1ターラーは30ノイグロツシェン
1ノイグロツシェンは10フエニヒ。
c) ハノーファー
1ターラーは24グーテングロツシェン(ブラウンシュヴァイクも同じ)。
d) オルデンフソレグ
1ターラー72グローテ。
となっていました。
但し1858年にザクセン、ハノーファー、ブラウンシュヴァイク、オルデンブルグは
1ターラーを30グロツシェン
1グロツシェンを10フエニヒ
としてザクセンと同じ単位に揃えました。上記以外の邦メクレンブルク・シュトレリン、メクレンフソレク・シユトレリッツ、シユレスヴィヒ・ホルシユタイン、も夫々独自の貨幣制を持っていたのですが、1866年プロイセンはオーストリアと戦って勝ち、オーストリアをドイッ連邦から追放して北ドイツ連邦を成立させ、郵便業務にていても郵便連合をつくった際貨幣制度も1ターラ30グロツシェンに略統一されしました。なお切手は発行せず郵便業務をトウルンタキシス家に委せていた邦のうちヘッセン選帝侯領やチューリンゲン北部の小領邦がこれに含まれています。
3.ハンブルク、リユーベックの貨幣制
ハンブルク・リューベックは共にハンザ同盟都市であり、多分地域的に近接していたた
めでもありましょう、1マルククーラントが16シリンゲという共通の貨幣制度を有していました。又この両市の共同管理の下にあったベルゲドルフは1868年にはハンブルクに吸収されましたがこの賃幣制度の下にありました。なお貨幣単位は北ドイツ郵便連合の時も残っています。12番14番がそれで、この2種の切手には額面表示がなく唯ハンブルクの封書用としか書いてありません。この切手は1874年末、つまり金本位制をとつて全国統一される迄使われたわけです。
4.ハンブルクの商取引に用いられた純銀を基礎とした銀行貨幣制
中世から近世にかけてヨーロッパでは金の生産量は少なくて貨幣として流通させるだけの量がありませんでした。勿論昔から金貨はありましたがそれは主として蓄財に用いられ19世紀に入る迄せいぜい金銀複本位制という形で利用されました。銀は生産量が多いこと金属としての耐久性に弱点があるなど価値が不安定でしたから、貿易決済用としてこのような特殊な貨幣制度がとられたものと思、われます。貿易用ですから国内の郵便制度の上には現われて来ませんし、ドイツで金本位制が採用されれば自然に消減したものです。
5.ブレーメンの夕一ラー金貨制
19世紀の前半で金本位をとっていたのはブレーメンだけです。それというのもイギリスが18/6年金本位を利用したこと。ブレーメンはその位置からイギリスの影響を受けたことによるものと考えられます。
ブレーメンでは
1金夕一ラーが72グローテ
1グローテが5シュヴァーレン
という割合になっていました。なお周辺(例えばオルデンブルク)のグロッシェン地区との比率として22グローテ(110シユヴアレン)が10ジルベルグロツシェンとされましました。1868年の北ドイツ郵便連合に加入した時はこの交換割合で換算され最終的に金本位制へと統一されたわけです
6.当時まだフランス領に属した地域のフラ
ン銀貨制
残念ながら「まだフランス領に属した地域」というのが具体的にどこなのか判りませんが19世紀前半のドイツにはいろいろな形での各領邦の飛地がありましたから、フランスのブルボン王家の領地があっても決して不思議ではありません。唯そんなに広い地域ではなかったと思えますので郵便史上に現われなくても当然でしょう。
さて以上が大体19世紀前半の状態です。それが次第にまとまって行くのほプロイセンを中心としたドイツ帝国成立への足取りと略一致しています。その大きな端緒は、1866年のプロイセンとオーストリアの戦争です。この戦争に勝ったプロイセンはオーストリアに味方したハノーファー、ヘツセン選帝侯、ナッサウ公の各領地、フランクフルト自由市を併合、オーストリアの勢力下にあったシュレスヴイヒ・ホルシュタインを獲得しました。
そしてオルデンブルク、ブラウンシュヴァイクの他ハンザ自由市も含めて北ドイツ連邦を結成し、1867年にはトウルンタキシス家の郵便権も買収して翌年北ドイツ郵便連合を発足させました。唯この時点では南部地区のグルデン、クロイツアの貨幣制度は、残りました。1867年の後半トウルンタキシス郵便を買収したあとプロイセンはクロイツアー額面の切手を発行しましたし、翌年1月からの北ドイツ郵便連合の切手はグロツシェン、クロイツア、シリングの3種の額面が並行して発行されています。
1871年普仏戦争に勝ったプロイセンはドイツ帝国をつくり上げました。但し郵便権については、バイエルンとヴユルテンベルクは帝国に渡しませんでした。ヴユルテンベルクは官用便を除いて1902年3月に帝国郵便への吸収を承諾しましたが、バイエルンは頑強に抵抗し、独自の郵便権を1920年3月迄持ち続けました。( ヴユルテンベルクの官用便も同じ )ドイツ帝国に統一の切手が発行さ才したのは最初に述べたとおり1872年で2種類の額面があったわけです。
ところがイギリスを始め世界的に金本位制採用の傾向が強まって来ました。金の産出量も次才に増えて来たこととそれにも拘らず金の価格が安定していることが貨幣として最適と見られたからです。プロイセンはフランスとの講和条約でエルザス、ロートリンゲンの他50億フランという多額の賠償金を獲得し、これを基礎に金本位制を樹立しました。1873年7月に法律に制定し、75年1月以降1マルクを100ペニヒとする統一貨幣制度が確立しました。
実は1857年ウィーン貨幣同盟というのがスカンディナヴィア諸国、ラテン諸国と対抗してつくられ、北部の1ターラーを南部の1、75グルデン、オーストリアの1.5オーストリアグルデンと同価格とすることがきめられました。これは1ジルベルグロッシェンが3.5クロイツアに、1クロイツアが3.4フエニヒにになります。
金本位制に移行する時1ターラーは3マルク(360ぺニヒ)に1%グルデンが3マルクにと定められました。逆算すると1マルクは夫々3分の1ターラー(10グロツシェン)、35クロイツアーです。これはハンブルグの1マルククーラント(16シリンゲ)と1司じ価値でした。
蛇足として申し述べればこの時の1マルクは純金1395分1ポンド(0.27グラム)。外貨との比率は20マルクがイギリスの1ポンド、アメリカの5ドル、フランスの25フランに相当したといわれます。なお明治30年日本で金本位制が採用された時は0.75グラムを1円としました。