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<ベルリン>


1948〜58

1948年の通貨改革は西側占領地区とソ連占領地区とでは経済単位を異にすることになります。米英仏ソ連の四国共同管理下にある旧首都のベルリンにおいても東と西で通貨単位が異なることとなり、通用切手も別々のものへと分かれて行きます。

通貨改革に端を発したソ連のベルリン封鎖の最中にあり、この間の経緯は複雑です。重要なことは1948年6月から1949年3月の間、西ベルリンでは東マルクと東側の切手は使えたが、東ベルリンでは西マルクも西側の切手は使えなかったということです。

とにかく西ドイツが独立した後も西ベルリンは米英仏占領地域という事実と、東ドイツ領内にある陸の孤島というのが現実です。切手も西ドイツ政府の行政下になく、西ベルリン独自発行と形が整えられていきます。

ベルリン封鎖は1948年6月25日より西ドイツ政府が成立した直後の1949年5月12日まで続きました。西ベルリンで東マルクが通用した事情は東マルクでなければ買えない物資があったこと、住民、企業が支払いを受ける場合東マルクで行われたことがしばらく続いたからです。(東マルクの流通は1949年3月20日まで認められました。)

ベルリン黒加刷

1948年9月3日発行 2pf〜5Mの20種
英米占領区発行の労働者シリーズにBerlinの文字を凸版で黒加刷したものです。東ドイツマルク建てで発行され、西マルクでも東マルクでも購入できたが東ベルリンでは切手の使用は出来ませんでした。

通貨改革後西側の労働者シリーズポストホルン加刷、ソ連地区加刷が期間限定で使用されていました。黒加刷シリーズはベルリン専用の最初のシリーズとなり、東西ドイツが二つの国に分かれる前に東西ベルリンの行政が分裂したことを明確に物語ります。黒加刷シリーズは台切手が安い労働者シリーズですので、偽加刷や偽消しがあり入手には注意が必要です。

ベルリン赤加刷

1949年1月20日 2pf〜2Mの14種
台切手は上の黒加刷と同様労働者シリーズで、西マルク建てです。東ベルリンでは使用不可です。

西ベルリンでは東ドイツの切手、東マルクが通用していましたが徐々に限定され、ソ連地域切手の販売禁止、東ベルリン及びソ連地区宛を除きソ連地区発行の切手の使用が禁止など西マルク化とソ連支配を排除する方向に向かいます。

ベルリンの建物シリーズ 1949-54

1949年3月20日ベルリンの建造物をデザインしたシリーズの発行が始まり、1949年に1pf〜90pfの小型15種、1DM〜5DM4種、1953年に4pf、20pfの2種、1954年に7pf,40pf、70pfの種と発行されました。西ベルリン地区にある建物が選ばれています。

建物シリーズの発行開始の翌日1949年3月21日から西ベルリンでの東マルクの使用が禁止になり、ソ連地区の切手の販売と使用が全面的に禁止になります。西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が成立して間もない1949年5月12日ソ連はベルリン封鎖を諦めました。





ベルリンの建物シリーズ 1956-62

1956年6月22日よりベルリンの建物を題材としたシリーズの発行が開始、前シリーズとテーマは同じですが戦後の建造物も対象に入っています。1pf−70pf小型16種、1M,2M大型2種です。印面の国名表示がDetschepostからDeuscheBundesPostと変り、Berlinの文字が入っているのは同様です。

西ドイツの復興は西側世界の威信もかかり、「マシャル・プラン」の援助もあり、西ドイツは奇跡的な経済復興を遂げます。東西の経済の格差は次第に広がっていきました。







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