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<東ドイツ>


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はじめに

第二次大戦後米ソ対立の広がる時代、ソ連支配地域に建国された社会主義国家「東ドイツ」は半世紀にわたり、西ドイツと対比する形で存在し、1990年共産陣営が崩壊と共に歴史の渦の中に消滅しました。戦争直後から東ドイツ地域では郵便事情は複雑で未だに理解できないことが多々あり、明確にならないのですが、わかったことから少しづつ補充していきたいと思います。

東ドイツ建国の1949年10月発行   東ドイツ最終発行1990年10月

1949年10月発行   1990年10月発行


終戦直後の状況

第二次大戦が終了したとき、概ねエルベ川の東はソ連、西は英米の占領下にありました。首都ベルリンもソ連軍の手中にありました。戦後の対ドイツ政策は戦勝国による分割統治と決められ、ベルリンは1944年のロンドン議定書で米英ソで共同管理となっていました。これにより1945年7‐8月英米軍は東ドイツ地域にあたるザクセン、チュウリンゲン州から撤兵し西ベルリンに進駐し、ソ連軍も西ベルリンから撤退し米英軍撤兵後の東ドイツ占領区に入り、東西の占領の配分が決まってしまいました。東ドイツ領域に住んだドイツ人の戦後はここから始まります。



この時期、混乱期にあり、占領国の通達でヒトラー肖像に代表される旧第三帝国時代の切手の使用は禁じられました。また消印についても「Reich」などの文字は使用が禁じられたのですが、何らかの事情で徹底はされず、この時代の郵便に使用例が存在します。占領地域で使用する切手の供給は英米は用意していましたが、ソ連占領区では全く用意されていませんでした。この状況下で額面のみを残し図案を抹消、加刷し図案を見えなくしたものが実情に合った形で郵便物が送達されていました。地方郵政地区毎に暫定的に切手を用意、流通させたいわゆる「地方切手」が存在しています。資材不足のため雑なものも多く、高値なものもあるので偽物も存在します。真偽の判定も難しいので入手には注意が必要です。

 この項の理解のために過去のドイツ切手部会報から抜粋した記事を参考に供します。  ⇒ドイツ切手部会報より抜粋記事へ


東西分裂

米英仏ソ連の占領下でのドイツの戦後処理は各国の利害が絡み、機能しなくなります。インフレ克服のため西側が導入した通貨改革が東西の分裂の決定的な要因になり、東ドイツ、西ドイツと政治体制が異なった国に分かれていきます。
(占領ドイツの統一に拘ったのはソ連で、大戦中の被害が西より多かったので巨額な賠償をドイツ全体から取り立てるためでしたが、また統一ドイツの中立化も狙っていました。英米は第一次大戦後の歴史体験から中立ドイツが、戦後軍事的に巨大化したソ連に傾斜する不安を思っていました。英米は統一ドイツを西側陣営に繋ぐ保証がない限りドイツのを統一させるわけにはいかなかったのです。)

1946年になるとソ連占領地区でも英米占領区と共通使用で以下の数字図案シリーズ、労働者シリーズが使用されていました。
使用期限は1948年7月31日までです。

数字図案シリーズ 1946年2〜4月
基本図案1種で、額面1pf〜1RM 27種発行




労働者シリーズ 1947年3月〜1948年
図案は4種、額面2pf〜5RMark 21種

1948年の通貨改革以後
「Sowjetische Besetzungs Zone」加刷切手 1948年7月3日発行
2pf〜84pf 16種。 その他数字シリーズなどに同様な加刷13種あります。



東ドイツの出発

東ドイツの出発
東西分裂が決定的になリ、全ドイツから賠償を取ることを阻止されたソ連は賠償の請求を自分の占領地区とそこに作られた東ドイツに向けられます。取立ては苛烈を極め、工場は解体しソ連へ搬出し、鉄道も枕木ごと持ち去り、土に埋まっているガス管まで掘り返して、ソ連へ向け運搬しました。残った工場は接収され、ソ連の所有となり、ソ連向けに生産がなされます。生産物はそこに住むドイツ人には還元されませんでした。こうして経済復興に欠かせない工業資産を現物賠償として凡てソ連にもっていかれました。東ドイツ復興では西ドイツ側に較べハンディキャップを負うことになります。非ナチ化、土地改革も西より徹底されます。しかし、民主化はされず、スタリーン化が進められ、州は廃止され、県制度をもとに一党独裁の中央集権化が図られました。

ベルリンの壁構築

1961年8月ベルリンの壁が構築されました。東ドイツの社会主義経済は軌道に乗れませんでした。それを嫌う人々が西へ逃げだしたのです。壁の構築により西への人の流出が止まり、東ドイツの社会主義の計画経済はようやく動きだしました。

壁が構築される前、東側西側かを分けるのは住所で人の往来を妨げるものはありませんでした。通りのこっちは西ベルリンで向こうは東ベルリン地区といった感じでしたから、西ベルリンに住む少女が日曜日朝東ベルリンに住む祖父母を訪ね夕方戻るとかは普通のことでした。ですから西ドイツへ移住するには東ベルリンへ入り、通りを渡って西ベルリン側に行き西の空港から空路で脱出できたわけです。壁の構築はこのあと東ドイツのトップに昇格したホーネカーの用意周到な準備と組織力で一夜にして出現します。東ベルリンの祖父母を訪ねた少女が西ベルリンの両親の元へ戻ることができなくなった悲劇もあったようです。

( 壁は一方で確かに人道に反するもので、東に住む人々に多くの悲劇を生んだのは事実でしょう。壁が崩壊し、ドイツの再統一がなされた現在このことを考察すると、壁の構築は東ドイツの国家の存立にとって必要だったとも言われたいます。西との経済格差は広がるばかりで、不平を抱える東ドイツ国民は若者を中心に西へ流れ、このまま進んでいたら、経済活動の人的目減りで東ドイツ国家は空洞化し老人ばかりの国になり、経済活動を支えるための周辺スラブ系の人々流入が進んだかも知れません。統一ドイツはドイツ人以外に他の民族を多く抱えるジレンマに悩むことになったかも知れなかったのです。)

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