ベルリンの壁崩壊への前奏
それは突然やって来ました。1989年9月ハンガリーとオーストリアの国境が開かれ、大量の東ドイツ市民がここを通過して西ドイツへ移住していきました。東ドイツに残った人々は自治を求めて全国各地で集会とデモを繰り広げました。
ハンガリーのほぼ中央に横たわるバラトン湖の湖畔には西側へ亡命を希望する東ドイツの人々が大勢待機していました。西への外国旅行が禁じられていた東ドイツの国民も東陣営のハンガリーへ行くのは自由でしたから、毎年穏やかなバラトン湖ヘ休養にでかけて来ていました。この年はいつにもまして西への亡命を求める人々が大量にバラトン湖湖畔集結していました。ハンガリー政府は人道上の処置としてオーストリアとの国境を開いたとのことです。
東欧世界ではソ連のくびきを脱する動きが活発化していました。ソ連経済の悪化で、軍事力の削減、西側との関係改善、経済の建直しのペレストロイカが始まっていました。1989年6-7月にはハンガリー、ポーランドはソ連と縁をきり、自主独立路線をとることに成功しました
ベルリンの壁崩壊
ベルリン経由でなく、西側陣営へ道ができ東ドイツから大量に国民が流出していくのですから、西ベルリン経由そしてベルリンの壁は意味のないものになりました。しかし、依然として東と西を隔てる境には違いがありません。
1989年11月9日、東ドイツ政府は国外旅行の自由化を宣言しました。数時間もたたないうちにベルリンの検問所に市民が押しかけ、ヴィザを要求しました。しかし、次から次へと続く市民の波に応じられなくなり突然国境検問所が開かれ、その日のうちにベルリンの壁が崩れました。
東西統一へ
東ドイツから流出する人々の数は日に日に増加し、ドイツの再統一の問題が浮上してきました。統一には種々の問題を解決しなければなりませんでした。ドイツの統一には戦後占領英米仏ソ四国の承認が必要でした。
西ドイツ政府は四カ国の他に東西ドイツを加えた六カ国での協議を提案を行い、了承を受け、東西ドイツの協議に英米仏ソ四国が同意する形で国際的に承認されました。
1990年10月3日、ドイツの再統一がなることになります。
一方独仏を中心にしたヨーロッパ連合が進行しており、ドイツ再統一は両ドイツだけでなくヨーロッパの問題でもありました。この時点でのドイツを取り巻く国際環境は四国をはじめヨーロッパの各国政府が東西ドイツの再統一に好意的であったということと、加えて特にドイツの大国化に常に歴史的に拒否をし続けて来たフランスの同意を得られたこと、ソ連のゴルバチョフが東ドイツの西側への移行を認めたことがドイツ再統一を可能にした大きい要因です。
西ドイツの戦後の民主化、東方外交で長年築いてきた東ヨーロッパ諸国との信頼関係などがいい方向へ作用したと言えるでしょう。