アンシュルス (ドイツによるオーストリア併合)
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1918年、第一次世界大戦に敗北し、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー二重帝国が崩壊、オーストリアは共和国として存在できたが、旧オーストリア帝国内の諸民族の独立し、国土の縮小により経済的には自立さえ危ぶまれる小国になった。
ドイツの弱体化を主張するフランス、イタリアなどの戦勝国は敗戦後のドイツが併合により再び復活するのを恐れ、反対し敗戦国には民族自決は許されないとし、ドイツとオーストリアの合併は認めず、1919年9月10日、サン=ジェルマン条約によって合邦は禁止された。
一方、戦勝国はオーストリアが独立を維持するために、1922年国際連盟の主導でオーストリアとイギリス・フランス・イタリア・チェコスロヴァキアの四カ国はジュネーヴ議定書を締結し、オーストリアは6億5000万クローネ(3000万英ポンド)の国際借款と引き換えにオーストリアはドイツと今後20年間にわたり合併しないという条件を約束した。しかし、国際条約では禁止されたものの、実務では独墺間で法律・税制・交通・通信などの共通化政策が進められ、併合を求める動きはなくなったわけではなかった。
ドイツで勢力を拡大しているナチス党の活動はオーストリアにも波及してきた。1932年の地方選挙にも戦後体制に不満を持ち、保守的・反共的な思想の人々の支持がナチスに向う傾向にあった。
1933年、ヒトラー政権が誕生すると、オーストリアではドイツの支援を受けたオーストリア内のナチス派が公然とオーストリアの政権奪取とドイツへの併合を主張し、議会は混乱に陥った。ドルフス首相はクーデタで議会を停止し、ナチスの猛動に対処し、ナチス党を禁止に追い込んだ。イタリアのムッソリー二は英仏とともに、オーストリアの独立維持を声明している。
1934年7月、オーストリア内のナチス党は首相官邸にてドルフス首相を殺害し、親ナチス派の組閣を要求するクーデターを起こした。このクーデタは鎮圧されたが、国内にはナチスへの嫌悪感が高まり、かえって国内の「ドイツとの合併」論を消しってしまった。またこの時イタリアは国境ブリネル峠に4個師団を集結させて、ドイツの介入を牽制した。ヒトラーは一時野望を納めざるえなかった。
しかし、1935年国際情勢はドイツ側に有利な状況に転じた。イギリスはヒトラーに対し「宥和政策」を外交の基本路線とし、イタリアはエチオピア侵攻で国際的に孤立しドイツと協調し、オーストリアから手を引き始めた。1936年ヒトラーは好機と見てオーストリアへ圧力をかけていく。
1938年2月ベルヒテスガーデンでヒトラーとオーストリアの保守派の首相シュシュニックと会談、オーストリア・ナチスの人物を内相に任命することを強要、オーストリアはこの要求を拒絶できなかった。シュシュニックは秘策として国民投票を実施し、「ドイツとの合併」か「自主独立」の選択にてヒトラーの要求を拒否することを狙った。ドルフス前首相暗殺以来のドイツ側による圧力に国民の反感が高まっており、実施されれば「自主独立」の選択が確実であった。
ヒトラーは激怒し、3月12日にドイツ国防軍をオーストリア国境に侵攻させ、実力にてオーストリア国土の占領させると威圧した。これに衝撃を受けた政府は、国民投票の中止と内閣の総辞職に追い込まれ、ヒトラーに屈した。ドイツ軍の進駐が開始され、オーストリア・ナチスのインクヴァルトが首相になり、3月13日ウィーンにヒトラーを迎え「ドイツ帝国とオーストリア共和国の再統合に関す法律」を起草と署名を行った。オーストリアはドイツに併合され、ドイツの単なる一つの州でオストマルク州と呼ばれる。
4月10日国民投票を行い、97%の合併賛成票を得たと発表された。
ドイツがオーストリア併合を強行した。ゲルマン国家の統合をドイツ人は歓迎したが、ヨーロッパ全土で戦争の危機が強まった。
註1)大ドイツと小ドイツ
第一次大戦の敗北によりオーストリア・ハンガリー帝国が解体され、オーストリアは多民族国家からドイツ民族単体の国となった。結果として二つのドイツ人国家間の主導権争いと非ドイツ系民族の問題を解消させることになったので「大ドイツ主義」によるドイツ統一運動が両国で論じられた。
註2)オーストリアでは大衆は当初ドイツとの合併を歓迎し、4月に行われた国民投票では99.9%が賛成した。ヒトラーは『わが闘争』の冒頭で、ドイツとオーストリアの合邦は自分の使命であると述べている。(ヒトラーはオーストリアの出身)
註3) ドイツ併合でドイツ切手の使用は1938年4月4日より始まった。なお、オーストリア切手の使用期限は1938年10月31日までとされた。
この間ドイツ切手とオーストリア切手の両方の切手が使えた。この時期の旧郵政主体の切手、この場合オーストリア切手
の使用例をミットロイファー(Mitlaufer)という。
この時の交換レートは1Schilling = 1ReichMark
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註4)ナチス政権は再軍備の急進により原料、食料の輸入が急増し慢性的な外貨不足の状態にあった。しかし世界は不況が長引きドイツの輸出は停滞していた。政権獲得以来ベルサイユ打破を是とし、画策してきたオーストリアの併合を1938年3月13日ようやく達成する。
軍備拡充の財源を求めるには他国に侵略しその資産を掠め取ることも戦略であり、オーストリア政府の国庫の保有金とオーストリア軍団はドイツの収めることとなった。