ノールウエイ・デンマーク侵攻
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1933.1.30 | ヒトラー政権獲得 |
1938.3.13 | オーストリア併合 |
1938.9.30 | ミュンヘン会議 |
1939.3.15 | チェコスロバキア解体 |
1939.9.1 | ポーランド侵攻 |
1939.9.17 | ソ連軍ポーランド侵攻 |
1940.4.8 | ノールウエイ・デンマーク侵攻 |
侵攻の経緯
ポーランドを電撃戦にて短期間に撃破したドイツ軍は次なる目標はフランスであった。しかし、ドイツの戦争継続の可否はスウェーデンの鉄鉱石とルーマニアの石油に大きく依存していた。夏季はボスニア湾、バルト海経由の輸送であるが、冬季ボスニア湾が凍結するため、ノールウェイ海側のナルヴィクへ鉄道輸送し、船で沿岸経由の輸送をしなくてはならなかった。
問題は英仏と戦争に入った今、中立国ノールウェイがイギリスに占領されるか、海上輸送を攻撃されたら鉄鉱石が途絶えることであった。かくてノールウェイの占領が急務となり、ドイツ軍は1940年4月8日侵攻、6月10日までにほぼ要所を制圧。
ノールウェイ経由の鉄鉱石の海上輸送ルートで重要な海峡に面するデンマークはドイツ空軍の軍事威嚇によって、早期に降伏。
デンマーク侵攻 ノルウェイ侵攻
ノールウェイ
オスロなど南部主要都市を占領したが、国王が北方へ逃れ徹底抗戦を続けたのでノールウェイの占領行政は遅れ、1942年2月1日クヴィスリング傀儡政権が確立するまでFeldpostがドイツ軍とドイツ本国間の唯一の郵便手段であった。公用郵便DeutscheDienstPostOsloが1942年7月11日に成立。
占領はドイツが連合軍に降伏する1945年5月まで続き、その間鉄鉱石の輸入は途絶えることはなく、またノールウェイを抑えたことで北欧経由での英仏とソ連との間を遮断出来た。
国王に続きノールウェィ政府もロンドン亡命したが、連合軍に商船艦隊を提供しその切手を発行している。
デンマーク
1940年4月9日から駐留ドイツ軍が連合軍に降伏する1945年5月4日まで占領下にあった。ドイツ軍のヴェーザー演習作戦により、攻撃を受けた。戦車や空挺部隊を用いた電撃的な侵攻に対しデンマーク政府は、侵攻開始後数時間で降伏した。ドイツと同じゲルマン民族であり、ほとんど戦闘を行なわずに占領を受け入れたことで、ヒトラーはデンマーク政府の存続を認め、デンマーク王もドイツ占領下のコペンハーゲンに留まった。デンマーク領のアイスランド、フェロー諸島はドイツ軍基地になる恐れでイギリス軍が占領する。郵政業務に関しては1943年8月以降の軍政下デンマークの武装SS用の切手の発行以外はデンマーク郵政の自治はほぼ守られた。
1940年12月10日占領下のコペンハーゲンから米国への外信官葉 駐留ドイツ軍検閲 クリックすると拡大画像が見れます。
1942年5月6日占領下のコペンハーゲンからドイツ本国への外信書状 駐留ドイツ軍開封検閲 クリックすると拡大画像が見れます。
WaffenSS(武装親衛隊)に属しているデンマーク兵士が故国へ差し出した手紙
国防軍の兵士は徴兵で構成されているが、武装親衛隊の隊員は基本的に志願兵で、今期大戦の後期には外国人義勇軍や囚人部隊までも編成されている。国防軍とは別の武力集団として戦闘に関わり、第二の軍隊とも呼ばれている。戦闘時には国防軍の指揮下に入る。
ゲルマン諸国という地域に限れば、ドイツ人はドイツ、オーストリア、スイス、ルクセンブルクに居住しているが、歴史を遡ってもドイツ国籍を持たずドイツ、オーストリア以外の外国に暮らすドイツ人、例えば戦争の結果、国境線の変更によりマイノリティになったドイツ民族が存在している。これら民族ドイツ人と呼び第二次大戦が進行するにつれ、義勇軍として第三帝国に徴用されていった。
差出:武装親衛隊隊員 I.E.SS Westland Klagenfurt
SS Schutzstaffel 親衛隊
WaffenSS 武装親衛隊 ナチス党直属組織親衛隊の下部組織