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<ワイマール共和国>


ワイマール共和国

第一次大戦はドイツ国民にとって不可解な形で終結となります。戦前のドイツは君主制下にあるとは言え、文学、医学、工業など多くの面で先進国となり、ドイツの発展の豊かさの中で、大衆はドイツに明るい未来を感じていました。しかし、意外な敗戦は戦った兵士、国民に納得し難い思いを残留させました。

1919.5 傷痍軍人救済

 

ワイマール共和国は荒廃した戦後の中からドイツの再生を目指し、当時最も民主的な憲法と称されたワイマール憲法 (註1)を発布します。だが民主主義議会制度が根付くには時勢が許さず、あまりに時間が足りませんでした。少数政党の乱立で議会は混乱を極め、共産主義と右翼としのぎ合いが続き、ドイツの復活を望まない戦勝国の思惑も絡み政局は安定しませんでした。

1919.7 共和制施行

   

戦時下の国債の発行で徐々にインフレが進行していました。戦後の混乱で膨れあがり、1923年ドイツ経済の心臓ルール地方がフランス・ベルギーに占領され、その窮状から貨幣が増発され、一気にインフレの狂乱となってしまいました。

1920.12

     

1923.7

     

1923.8ー9

     

1923.10−11

     

1923年末政府はレンテンマルク (註2)による通貨改革を行い、1年後にはインフレーションの封じ込めることができました。同時期ザクセンなどで共産革命の騒乱が生じ、ミュンヘンでヒトラー一揆が起こりました。共和国はこれらを抑えてようやくしばしの安定期に入ります。

1923.12 レンテンマルク

   

1926.11 著名人シリーズ

   

1928−31 エーベルト、ヒンデンブルクシリーズ

     

1924年頃から1929年までの間の5年間は後の時代から「黄金の20年代」と呼ばれるように、ラジオ・映画などメディアを軸に大衆文化が咲きます。しかし、経済が回復に向かっていると言っても戦前の工業水準にはまだ達せず、若者は就職難に喘いでおり、不満が鬱積していました。1929年10月、世界大恐慌の到来です。ドイツの経済は再び崩壊の淵に立たされます。何れの内閣も重責に耐えられず、国内は混沌しており、やがて共産化か極右翼による政権かにと選択幅が狭まっていきます。

歴史にもしは禁句だが、もし戦勝国がドイツに苛酷な講和条約をかさなかたら、インフレーションを誘発させなかったら、世界不況が襲来しなかったら、その後のドイツは別の歴史をたどったに違いないと

Deutche Reichはドイツ帝国となりますが、Reichは国という語感で、日本国、ドイツ国といった意味合いです。ワイマール時代は形だけとは言え民主主義国ですから切手の国名表示が「Deutche Reich」のままなのはチョット奇異な感じを受けますが帝国を国と読みかえれば納得です。ワイマール時代の切手はインフレ期の多量な種類の切手を含みますから380種にもわたる数になります。そしてバラエティを加えると大変な数になり、インフレ期はドイツ切手収集において一つの大きいテーマになっています。


註1) 帝政が廃止され、共和制が選択されたが、首都ベルリンは不穏な革命的な状況だったので一時議会をワイマールに移し、1919年7月ドイツ国憲法を制定した。諸連邦国が君主のいない州となり、国民投票による法律の採択、国家元首(大統領)の国民直接選挙のよる選出など国民を重視する意味で、当時最も民主的な憲法と言われた。

註2) 農地、工業企業の国の債権を担保とし暫定通貨として通用。1兆マルクが1レンテンマルクとされ、安定後金本位の1新ライヒスマルクに切り替えられる。担保の信用によるものより、発行額が24億マルクに抑えられ、それが厳守されたことが成功に繋がったとされている。(グスタフ・シュトルパー「ドイツ現代経済史」)

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