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<ツェッペリン飛行船>


ツェッペリン飛行船

ツェッペリン飛行船の絵葉書

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飛行機がまだ実用化で十分でなかった頃、飛行船が郵便物と旅客をのせ大空を翔けた時代がありました。

第一次大戦が終了すると郵便物を航空機で運ぶ気運が生まれました。この時代最速の通信手段の電信は余りに料金が高く、一般的ではありませんでしたので、郵便を早く運ぶという欲求が航空分野の発達を促進させます。

敗戦後のワイマール時代ツェッペリン飛行船は政府および国防軍の援助を期待できず、ツェッペリン伯爵の後継者たちにとって、生き残りと夢の継続には民間ベースで成功する必要がありました。飛行船は航続距離、搭載能力の面で飛行機を大きく上回っていました。成功への道は飛行船による世界一周の試みで開かれます。


ブランデンブルグ門の上を行くツェッペリン飛行船

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1928年新たに完成したLZ-127号グラフ・ツェッペリンにて、アメリカでの資金調達のため大西洋を試験飛行し、1929年世界一周へと旅立ちます。航路はレークハースト(米国)ーフリードリヒハーフェン(ドイツ)ー東京ーロスアンジェルス(米国)ーレークハースト(米国)ーフリードリヒハーフェン(ドイツ)、飛行距離3万4200キロ、所要時間300時間。飛行は大成功を収め、ツェッペリンは一躍名声を獲得しました。これにより世界中にツェッペリンブームが生まれ、各国から招待飛行、訪問飛行の要請が増え、搭載する郵便により収益も見込め、飛行船は事業として軌道に乗ることとなります。

世界一周旅行の基点はドイツからでなくアメリカのレークハーストとなっています。この企画のスポンサーである新聞王のハーストが、ニューヨークを出発地と主張したために、ツェッペリン飛行船はフリードリヒハーフェンからレークハーストに一旦回送され、ここより出発となりました。

ツェッペリンが運んだ郵便物はツェッペリンカバーと呼ばれ、フライトカバ-の収集家、航空ファン、魅力的な記念切手の発行もあって切手収集家の間で人気を集めました。ワイマール共和国から第三帝国への過渡期の「黄金の20年代」に翔けた飛行船は航空史に大きい輝きを残しました。

1928年9月 グラフ・ツェッペリン号 アメリカ宛の航空郵便料葉書2RM 封書4RM用の2種 

   

1930年4月 南米訪問飛行 2RM、4RMの2種 前年世界一周飛行に使用した切手が余っていたので、南アメリカ飛行の文字加刷して発行。

 

1931年6月 北極飛行

 

1933年9月 シカゴ万国博覧会記念飛行

 

日本の国内の郵便料金がはがき1銭5厘、封書3銭の時代、ツェッペリンよるドイツへ封書料金は5円10銭で現在の値に換算する2万円以上に相当するとのことです。


ツェッペリン飛行船はツェッペリン伯爵の執念から誕生しました。

1870年普仏戦争でパリを包囲したプロイセン軍に若き日のツェッペリン伯がいました。パリから舞い上がり、包囲したプロイセン軍の頭上を超えていく気球を見上げていました。偵察が軍務のツェッペリン伯は軍事に応用できることを見抜いていました。フランスとドイツは敵対関係にあり、普仏戦争以後フランスは常に報復の機会を狙っていました。ドイツはフランスに対し常に用心を必要とする時代でした。周囲の無理解、たび重なる失敗と資金調達の困難はあらゆる創始者につきまとうものですが、その実現を生涯の夢としたことに始まります。

   

ツェッペリン飛行船時代の絶頂と終焉

この頃一方航空機側ではリンドバーグがライアン単葉機「スピリット・オブ・セントルイス号」で大西洋横断。サン=テグジュペリがアフリカや南米で活躍していました。航空航路の開発、発展は大量輸送の飛行船の生きる道でしたが、航空機の進歩も目覚ましい時代でもありました。

   

1933年ナチスが政権を取るとツェッペリン飛行船はナチスにとって対外宣伝ヘの期待大と評価され、、国家の資金援助が大幅に受けられ、ツェッペリン飛行船会社は資金繰りから解放されます。グラフ・ツェッペリン号の次機種開発が進みヒンデンブルク号が誕生しました。両飛行船は1936年のベルリン・オリンピックの宣伝飛行、国家行事の周知に国内外へ多忙な飛行が続いていきます。

ツェッペリン飛行船が運ぶフライトカバー



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ツェッペリン飛行船が運ぶフライトカバーの人気に加え、絵葉書、ツェッペリン飛行船から撮影した写真などのツェッペリングッズ販売も活況を呈し、それがドイツ製品の輸出促進という波及効果も生みました。

   

今や順風満帆の感でしたがツェッペリン飛行船には最大の弱点がありました。巨大な機体を支える揚力は可燃性の水素ガスでした。ツェッペリン飛行船はいつ爆発してもおかしくない危険物を抱え込んで飛行していたことになります。安全なヘリウムガスが既にアメリカで開発されていましたが、ドイツに販売すると軍事に転用されるという理由でドイツには供給を禁じていました。1937年ニューヨークヘ観光飛行のヒンデンブルク号は着陸地のレークハーストで炎上という事故に遭遇しました。これを境として安全性の面で商業活動にかげりが生じ、第二次大戦の勃発が迫る1939年末には航続距離、搭載能力で著しい進歩の飛行機に役目を譲ることになります。

ツェッペリン飛行船の復活

時代が更に下って1990年には飛行船のよさが見直されることになります。

(ページ内のツェッペリンフライトカバーの画像は前世話人T.K.氏提供)

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