ドイツは南部のアルプスに行かない限り高い山はない。ヴァルトブルクの山はWikipediaによれば僅か411mの標高だが、城壁からの360度の眺望は実に素晴らしい。世に名高いミンネゼンガーによる歌合戦や楽聖バッハ、ドイツ国旗誕生の地、そして宗教改革のルターで知られるアイゼナハ市の頭上に聳える名城である。
1923年発行 1932年発行
城の建設は1067年まで遡ることができるという。それから何世紀にもわたってロマネスク、ゴチック、19世紀の建築様式で完成された城建築の複合体といえる。城郭の大半は15世紀以降の建造だが、本丸のロマネスク様式の城館は12世紀には完成していたらしい。これは12世紀末テューリンゲン方伯ルートヴィヒ1世によるものだという。1999年世界文化遺産となったこのお城は90年以上も前から度々切手に登場しているが、東側から見上げた城の見栄えが最もよく、切手のデザインにもそれがよく表れている。 伝承と歴史の数々に彩られて、後世に多くの芸術家に啓示を与え、またドイツ史の舞台ともなった。その幾つかを以下に紹介する。
このお城はヴァグナーの歌劇で知られているがその物語には直接触れない。歌合戦の伝承は昔からハンス・ザックス、E.T.A.ホフマン、ウーラント、ティーク等が題材として、またグリム兄弟も取り上げた。(人物の切手は左よりハンス・ザックス、E.T.A.ホフマン、L.ティーク、L.ウーラント)
しかし何といってもヴァグナーの創作物語がよく知られ真実が曇らされている。とはいえ、歌合戦に関する定本や定説となるものはなく、ここでは真偽は別として最も一般的な話を紹介する。
ものの本をみると、歌合戦は1206年とか1207年にあったといわれている。テューリンゲン方伯ヘルマンは芸術愛好家として多くのミンネゼンガー(吟遊詩人)を招き、宮廷には入れ替わり立ち代わり詩人たちが寄宿していた。あるとき「なぞなぞ」形式の、平安王朝の問答歌を思わせる歌会があった。一人の歌人が謎を歌い、もう一人が答えるという形式である。謎を出したのはクリングゾル・フォン・ウンゲルラントで答えたのはヴォルフラムだった。それから1年後或いは数年後に「君主賛歌」と言われる歌会があった。(1970年発行青少年福祉切手 中世ドイツの吟遊詩人を描く、左からヴォルフラム、ヴァルター)
伝承によれば7人のミンネゼンガーが参加し、どこの君主が最も優れているかを歌うものだった。6人がヘルマン方伯を賛美したが、一人ハインリヒ・フォン・オフタディンゲンのみがオーストリア公を賛美した、というものである。
この二つの伝承の順序が逆転し、伝説では「君主賛歌」でハインリヒ・フォン・オフタディンゲン一人がヴァルター等6人を相手に戦ったが無勢にも敗れる。そこで彼は旅に出てハンガリーにたどり着き、そこのクリングゾルに経緯を話す。クリングゾルは魔法を使ってハインリヒ共々瞬時にヴァルトブルク
に着き、先の6人に謎を出す。代表としてヴォルフラムがその謎を悉く解き明かす、というものである。
この物語の後半ではハインリヒはまったく登場しないので、前半の主役は無視されていて、いかにも二つの物語を無理に繋いだ感じである。この話は定本がないゆえに細部が異っているものがある。
しかしいずれにしてもヴァグナーが題材とした「タンホイザー」は後世にできたヴァリエーションである。歌合戦の間は近世に作られたものだが、その内部や周辺の部屋や廊下にはシュヴィンドによる所縁のシーンやミンネゼンガーのフレスコ画に満ちていた。彼はまたそこから続くエリーザベトの画廊といわれる廊下に、方伯妃となった彼女の生涯を描いたフレスコ画が描かれている。(参照画像は左上左ヴァグナー、左上右タンホイザーを描くリヒテンシュタイン切手、右は画家のシュヴィンド(1804-1871))
「タンホイザー」に登場するエリーザベトのモデルは「テューリンゲンのエリーザベト」或いは「ハンガリーのエリーザベト」と言われている。
1207年ハンガリー王アンドラ―シュ2世の王女として生まれ、ヘルマン方伯の子息ルートヴィヒに嫁いだのは1221年彼女が14歳のときだった。1227年彼女が20歳のとき夫が十字軍遠征中に没するとマールブルクへ退けられる。そこで自らは貧窮の身ながら施療院を作り貧者の治療に残りの生涯を捧げ、31年に24歳の若さで亡なった。
死後4年にして早くも教皇グレゴリウス9世により聖列されている。祝日は11月19日である。彼女はドイツ人の敬愛を集め、昔から多くの美術品の対象になっているほか、切手には度々登場している。母国のハンガリーからも数度の切手に登場している。
ヴァグナーの作品で、エリーザベトは領主ヘルマンの娘となっているのは彼の創作だが、歌合戦の伝説にあるハインリヒ・フォン・オフタディンゲンがタンホイザーと融合・入替りとなったのは、19世紀ドイツロマン派では最もいき渡っていた伝説だったことによる。
エリーザベトの間はモザイクに彩られていたのが印象的だったが、これは20世紀初頭に施されたものだという。またエリーザベトの居室は当然のことながらヴァルトブルク城の本丸にあり、15世紀以前の城の面影を残している。 歌合戦の間からエリーザベトの画廊といわれる廊下にはシュヴィンドによってエリーザベトの生涯を描くフレスコ画を10点ほど見ることができる。この居域にはデューラーがデザインしたという箪笥もある。彼自ら作成したのか、指物師に指示したのだろうか。(左の2種はハンガリーとドイツからの発行 救貧と施療を施すエリーザベト、右はエリーザベトの居室がある城の本丸)
ルターがこの城の一室に籠ってギリシャ語原典から新約聖書をドイツ語訳したことはあまりにも有名である。
アウグスチノ托鉢修道僧のルターは若いころローマを巡礼した。そこで目にしたのは教
皇はじめ枢機卿など高位聖職者が豪奢な宮殿に住み、愛妾を抱えた放埓な生活ぶりだっ
た。>一方アルプスの北側では、貧しい庶民が厳しい気候のなか懸命に身過ぎに努め、しかも乏しい中から来世を信じてなけなしの金を教会に献金していることだった。
この矛盾を突いたのが、1517年の「95ヶ条の論題」である。ヴォルムスの帝国議会で自説を曲げなかったルターは破門を宣せられた。ヴォルムスからの帰途テューリンゲン山中で何者かに拐われたという形ととってフリードリヒ賢公によりヴァルトブルク場内に匿われる。
ここで約10か月を過ごしたルターの部屋は東ドイツ発行の切手によって外観が描かれている。ルターが聖書の翻訳中悪魔が現れる。「去れ!」といって投げつけたインク壺の跡
が室内にあると聞いていたが、これは間違い。 インクの墨跡ではなく、傷跡だった。伝説であって真偽を問う話ではない。因みに旧東ドイツにあったヴァルトブル城
だが、珍しく当時の西ドイツから切手が発行されている。宗教改革450年を記念してのこ
とだった。2017年は宗教改革500年に当り、記念切手の発行も予定されている。この点に関しては忙しいことになりそうでる。(右は1952年発行西ドイツのルター、左は東ドイツ発行のヴァルトブル城内にあるルターの居室の窓を描く、1967年西ドイツ発行の宗教改革450年で描かれたヴァルトブル城)
訪ねてみないと分からないことだが、このお城には数々の美術品が多く収蔵されている。先に記したデューラーの箪笥もそうだが、ルター聖書の第2版、コイン、彫刻、その他工芸品などがあるらしい。〜らしいといったのは、私はそれに気づかなかったからだ。しかし良く知られっている絵画は間近に観賞することができた。その多くはルターの改革に同調したクラーナハとその工房で作製された作品である。これらは代々の宗家や、後世のヴァルトブルク財団によって収集されたものである。(切手は展示の作品の例)
ナポレオン戦争によりドイツが蹂躙された結果、国内にはナショナリズムと自由主義が覚醒された。しかしナポレオン後のウイーン体制は、ナショナリズムと自由主義を否定するものだった。諸侯も己の権力保持の観点から同調し、ドイツ統一は更に長引くことになる。1817年ヴァルトブルク城付近で、学生連盟(Burschenschaft)は宗教改革300年の記念集会を開催した。そのとき3色の学生旗を手にドイツ民族主義を掲げて気勢を挙げたことから、メッテルニッヒは危機感を持ち諸侯と共にこの勢いを弾圧した。その時学生たちが2年前(1815)に用いた3色旗(学生服の黒、襟の赤、ボタンの金)が後にドイツ国旗となるのである。ドイツ国旗の三色は、黒は勤勉、赤は情熱、金は名誉と後付けされもいる。ここには革新的風土があるのか、後の1869年にはアウグスト・ベーベルによるドイツ社会民主労働党が結成されたりしている。(ドイツ国旗175年 A.ベーベル)
世界遺産のお城から外れて麓のアイゼナハにも少し触れたい。
この街は1498年に若きルターがラテン語を学ぶため滞在していた。この家は現在も保存されている。ルターハウスと殆ど背中合わせといってもいいくらいの同じ一角にバッハが洗礼を受けたゲオルグ教会があり、程遠からぬ先にバッハ記念館がある。長らく彼の生家といわれていたが、生家は市内の別の場所だったことが判り、現在は出生後の家族との住居だったことが確認されている。(J.S バッハ、 ルターハウス)
(文 K・K)
ルターの居室を描いた官製葉書 Mi#PP9F)133-3
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