ドイツ最北の国境の町である。ここより北はデンマークとなる。昔シュレスヴィヒ・ホルシュタイン公国時代の首都であり、かってハンザ都市の一員として栄えた港町である。
12世紀頃にはデンマーク人が入植している。シュレスヴィヒ・ホルシュタインは神聖ローマ帝国領内にあり、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン公国として、15世紀以来デンマーク国王と同君連合の関係であった。特にシュレスヴィヒはドイツ人デンマーク人が混在していて、ドイツとデンマークのどちらに帰属するか紛争が絶えなかった。
1864年、プロイセンはオーストリアと連携して対デンマーク戦争で勝利し、シュレスヴィヒを得、1866年の普墺戦争によりホルシュタインもプロイセン領としている。プロイセンがその後普仏戦争にも勝ち一気にドイツ統一まで仕上げたビスマルクの深謀遠慮の政治はここより始まる。
第一次世界大戦後、ドイツ帝国の敗戦で民族自決により北シュレースヴィヒは住民投票が実施されデンマークに帰属する。その結果フレンスブルクはデンマークと国境を接することとなり20%のデンマーク系住民を含んだままドイツへ帰属し、以来辺境の町になった。
第二次大戦後、南シュレースヴィヒ返還が連合国側から提出されたが、デンマークはドイツとの関係を考慮し断わっている。
第二次大戦末期の数日、ドイツ国防軍の本営がこのフレンスブルクに移った。1945年4月30日、ヒトラーはベルリンの首相官邸地下防空壕で自殺し、遺言で国家元首とされた海軍のデーニッツ提督はフレンスブルクにいた。政府を組閣した短命な内閣は敗戦の幕引きの役目を負い、無条件降伏を受け入れるのである。ニュールンブルク裁判でデーニッツ提督は戦争責任の一端も負わされる。
日本で『第九』が初めて演奏されたのは、1918年6月1日、徳島県鳴門市にあった、坂東捕虜収容所と言うことは有名である。オ−ケストラの指揮者がヘルマン・ハンゼンと言いフレンスブルクの出身であるのはあまり知られていない。ハンゼンは1904年に海軍に入隊、1914年第一次大戦で青島へ出征、軍楽隊を指揮していたが捕虜になり徳島収容所へ収容され、そこでオーケストラを結成していたのである。近年鳴門市ドイツ館館長がフレンスブルクのミュールヴィック海軍士官学校の資料館を訪ねた折、徳島収容所時代の独語の新聞『徳島新報(Tokushima Anzeiger)』の全3巻が発見されたという