ハンブルクに次ぐドイツ第ニの港町。大司教座の町として興り、交易により独立都市国家ハンザ同盟都市として繁栄した。今も当時の面影を残す煉瓦造りの建物が独特の景観を作っている。現在のドイツ連邦共和国においてハンブルク市だけで一州を形成している。
ハンブルクの名は9世紀の初めにフランク王国のカール大帝が現在の聖ペトリ教会のあたりに築かれと言われる城砦ハンマブルクに由来する。(ブルクは城砦の意、「ハンマ」は川岸の低湿地を意味する。)
831年にはルートビッヒ敬虔王(カール大帝の息子)が司教座を置き、デンマーク、スウエーデン、スラブの地などへのキリスト教伝道の前線基地とした。更に建設された町を発展させるために、商人へマルクトを開く権利と貨幣鋳造権を認め、商業を保護したのでエルベ河を利用した交易の中心地となる。11世紀には大聖堂が建設され、皇帝フリドリッヒ一世(バルバロッサ王)から関税を免除され、自治権も獲得し自由都市となってハンブルクは急速な発展を遂げる。
14世紀にハンザ同盟に加入し、ハンブルクは経済、政治面で力を増していくが、独立独歩の精神があるのか、ハンザ同盟がデンマークと戦っているときも我関せずと非協力だったり、独自に他国の商人と手を結ぶとかがあったらしい。30年戦争以降、ハンザ同盟の都市が弱体化し領邦国家の支配下に組み込まれていくが、ハンブルクは自由都市でありつづけ、ナポレオン失脚後の1815年、ハンブルクは自由都市としてドイツ連邦に加入。1871年統一ドイツ帝国の一員となる。
「自由ハンザ都市」の呼称が公式に用いられるようになった。
チリハウス 左)
チリ硝石の輸入で財を成したヘンリー・スローマンが建築家、フリッツ・フーガーに設計を依頼し1920年代に完成した。チリの家という名前はこれに由来する。船をイメージしてデザインされた商館建築で、東側の概観が天を突き刺すように伸びている。様々な模様を貼り付けたレンガ構成の外壁は北ドイツ伝統のレンガゴシック様式を継承したものと評価されている。
聖ミヒャエリス教会 右)
2500人収容する北ドイツ屈指の教会。1750年の火災後の再建は一部ハンザスタイルを残すバロックであったが、1906年の再火災後はオリジナルの形で再建。132mの時計塔は昔も今も船乗りの目印でシンボル。地上82Mの展望台からハンブルクの町が一望できる。ブラームスが洗礼を受けたことでも知られる。
1842年大火にみまわれ市内の30%以上が焼けてしまった。ハンブルクの復興に多大に貢献したのが詩人ハイネの叔父でハンブルク在住の銀行家ザロモン・ハイネである。ハイネはこの叔父の銀行で2年間修業したが商才なしということでか大学への道を勧められている。ハイネはパリでハンブルクの火災を聞く。「ハンブルク!ぼくが嫌悪すると同じに最も愛している場所・・・」と書いている。
音楽家のメンデルスゾーンとブラームスはハンブルク生れである。メンデルスゾーンは裕福な銀行家の子息、ブラームスは貧しいコントラバス弾きの息子として。両者ともハンブルクではなく、メンデルスゾーンはライプチッヒで名声を得、ブラームスはウィーンにて評価をうける。ブラームスは故郷のハンブルク交響楽団の指揮者になることを望んでいたのだが相手にされず、晩年ようやく招きが来た時断っている。のちにハンブルクが生んだ偉大な音楽家に詫びるかの意味で名誉市民の称号を贈っている。
エルベ河畔には赤レンガの倉庫街が連なる。100年前に水中に膨大な木を打ち込み、その上に倉庫群を作った。そこには船運都市として重要なものが収められて来た。タバコ、珈琲豆、薬味、香料、ガラスなど。第二次大戦で、ハンブルクも激しい空爆にあっている。倉庫街は被害を免れる。連合軍はハンブルクを接収した時、すぐに使用できる品物がどこにあるか熟知していたのである。