ヘルゴラントはハイネが「北海の珊瑚なす島」とうたった奇島で、シュレースヴィッヒ・ホルスタイン州に属しています。古来ドイツ、デンマーク、英国との間で取ったり、取られたりの運命を辿ってきました。ヘルゴラントの名はギリシャ語の赤い土のドイツ語訳、地質学的には赤色砂岩からでいているので詩人のハイネもサンゴと歌い上げたのである。
島の広さは1.9平方キロ、細長い形である。観光スポットは島の周囲の断崖絶壁と野鳥。人口は2000人前後、その殆どがこの島の特産のエビガ二取りの漁師、少数がホテル、レストラン、商店の経営である。小さい島だが町長もいれば郵便局員もいる。銀行もあれば税関もある。13-4世紀は海賊の根拠地として知られていた。15世紀末ハンザ同盟を結んだ以来、伝統的に免税地域と認められ、島を訪れる人には免税品の購入が目的というのも多い。
1497年ハンザ同盟に加わるまでドイツ領であった。ヘルゴランド島をめぐってドイツ、デンマーク、イギリスの争奪戦が始まったのは翌年の1498年で、デンマークの海軍が奇襲でこの島を占領し、1714年領土宣言して約一世紀デンマークの統治が続いた。1807年、イギリスがナポレオンに対する戦略基地としてヘルゴラントを占領し、7年後の1814年キール条約で英国の直轄植民地になった。1890年、ザンジバル島との交換により再びドイツに帰属となる。
( ナポレオンの対イギリスの大陸封鎖には大きい抜け穴があった。それは密貿易が盛んに行われたのである。その主要基地がヘルゴランド島であった。)
イギリス領時代のヘルゴラント島の切手。図案のシルエットはビクトリア女王、ヘルゴラント島では1890年8月10日までイギリス発行の島用切手が通用した。
右は第三帝国時代の1940年発行 ヘルゴランド島帰属50年の記念切手。この時代重厚な切手の中でグラビアの明るい切手が印象的。
第二次大戦中、島は海軍基地となり、ここより発信したドイツのUボートは連合軍にとって恐怖の的であった。1945年ドイツが降伏した後も、英空軍は復讐に猛り空爆を止めず、島にある軍事施設をドイツ将兵もろとも100%破壊した。翌1946年、イギリスは領有宣言を行ったが、将来またこの島をめぐって紛争が可能性を見越し、1947年ヘルゴラント島の消滅作戦を図る。
7000トンにおよぶ大量の爆薬を島に仕掛けて爆破を敢行した。しかし、表面の半分が吹き飛んだが島は全体としては元のままであった。それならばということでイギリスの空海軍は演習の標的としだしたのである。
ドイツの国民は黙って見ていなかった。ヘルゴラント島の奪還に世論がもりあがり、1951年二人の西ドイツの青年が小船で島に上陸し、テントを張って座り込み、島への爆撃を阻止に命を張った。 これにより西ドイツとイギリスの間でヘルゴラント島の返還交渉が開始され、1952年3月1日三度びヘルゴラント島はドイツに帰属することになった。