シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州のバルト海岸最大の港市。古くからハンザ同盟の旗手として栄え、川と運河に挟まれた美しい街並みは、「七つの塔とホルステン門の町」とも呼ばれ世界文化遺産にも登録されている。
リューベックは直接海に面していなくて、船は川づたいに上ってくる。運河で内陸部と結ばれ、トラーフェ川河口に近く、運河でエルベ川と連絡する。街のシンボルは2本の塔をもつホルステン門。15世紀に造られた城門で、現在は内部は歴史博物館となっている。(もともとはホルシュタイン門だったそうだが、リューベックっこ達がいつのまにか i の音抜いて発音するようになったせいだとか)海の商都として栄えたリューベックの町には美しい歴史的建物商館や銀行、保険会社が軒をつらねている。リューベックとは先住民族の言葉で「いとしい女」の意だそうである。
リューベックの発展には東や北のスラブ族を従え、次第に北方の王者としての実力を備えるようになったハインリッヒ獅子公が寄与した。実務的能力をもつ王で、
1159年大火で崩壊したリューベックの町の再建に着手し、北方発展の根拠地として
位置付け、東方貿易にて町を発展させた。
1180年に獅子公は十字軍遠征への援軍の要請を拒否したことなどの事由でバルバロッサ(神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世)により失脚する。しかし、リューベック市はバルバロッサ皇帝に市を開放し、寛大な統治権(船舶航行、土地所有など)の継続を認可されている。
左は1959年発行 切手展記念、ドイツ統一以前のリューベック市発行のステーツをデザインしている(リューベック市の紋章 双頭の鷲は帝国都市のしるし)
右は1943年発行 ハンザ同盟都市リューベック市800年
1226年、リューベックは帝国直轄都市となり、フリードリヒニ世(バルバロッサの孫)により貨幣鋳造権をも受けた。ロシアの毛皮、北洋の海産物が輸入され、衣料品、金属製品、ワイン・ビールが輸出され、原料市場を結ぶ集散地として急速に成長した。ハンブルク、ブレーメンなど港町からケルン、ブラウンシュヴァイクの都市を含む大小約200の都市と互助組織のハンザ同盟を結成し、その盟主として経済力、政治力にて約一世紀半に渡って北海、バルト海貿易を支配するまでになる。
リューベックはシュテクニッツ運河の建設で塩の輸送に進歩をもたらし経済発展をもたらすが、ハンザ同盟にも除々に陰りが生じてくる。同盟内の対立、新海洋国家イギリス、オランダ台頭、北方諸国の強力化などハンザの商業網が崩れ始め、各地の商業拠点からの撤退、商館の閉鎖が続出してくる。地理上の発見により商業の中心が北海から大西洋に移動も大きく作用した。以後ハンザ同盟は衰退し、16世紀末には活動が停止となる。
リューベックにとってナポレオンの大陸封鎖も大きな痛手となり、多数の商館が破産した。1871年のドイツ帝国成立とともにリューベックは州となり、1937年のにはシューレースヴィッヒ・ホルシュタインに編入された。
ハインリッヒ・マン(1871 〜1950 年)、トーマス・マン(1875 〜1955 年)兄弟はリューベックの生んだ文豪である。リューベックの豪商一家の盛衰を描いた名作「ブッデンブローク家の人々」は、自分の一族をモデルに書き上げたトーマス・マンの出世作である。生家はハインリッヒとトーマスのマン兄弟博物館となり、彼らの生涯と作品が展示されている。
「東方外交」でノーベル平和賞を受けたドイツ首相のブラントもリューベック出身である。