シュヴェリーンはメクレンブルク・フォアポンメルン州の州都。湖の多いメクレンブルクの地形で広大なシュヴェリーン湖と豊な緑に囲まれ、東西ドイツの統一以来観光の町にもなっている。
5世紀の民族の大移動までもともとゲルマン人が住んでいて、そのゲルマン人が去った後スラブ人が移住していた。ザクセン公ハインリッヒ獅子王(Heinrich dem Lowen)はキリスト教布教と北方へ進出を目的として、1160年この地のスラブの国境砦を攻め落とし、スラブ系民族を支配下においた。その後ハインリッヒ獅子王は川の中州にシュヴェリーンの町を建設している。7年後司教座が移され、キリスト教伝道の前線基地となった。1160年の戦いで戦死したスラブ人領主の遺児がキリスト教に改宗し、ハインリッヒ獅子王より前領主の遺産を返して貰い、メクレンブルク公家の始祖となった。
30年戦争の際神聖ローマ帝国の傭兵隊長ヴァレンシュタインが、戦功により1626年から2年間メクレンブルク公国を知行地と受け、帝国諸侯の地位を得ている。しかし、他の諸侯の妬みと皇帝の猜疑心をかい、6年後に暗殺されている。メクレンブルクは30年戦争で多大な被害を被り人口を半減している。
シュヴェリーンの町の建設者ハインリッヒ獅子王に因んでシュヴェリーン市の紋章には旗を掲げたハインリッヒ獅子王の騎馬像が描かれている。青地に金色の騎馬像なので、黄金の騎士とも呼ばれている。
スラブの国境砦であった
シュヴェーリンの城塞はスラブ人の水城として10世紀に記録のあり、シュヴェーリン市より古い歴史がある。この城は15、16世紀の間に何度か改修されていて、本来ゴシック様式の建築だったところへ、後ネオルネッサンス様式で増築されるなど宮殿としては変わった景観を持つ。
19世紀には建築家デムラー(Demmler)がベルリンからシンケルの推薦を受けやって来る。メクレンブルク公のお抱えとして、町の拡張工事を受け持つ傍らシュヴェーリン城の改修工事で数々の彫刻、銅でふいた円天井などが城飾ることになった。1913年の火事で破壊を受けたが、修復で残す価値のある部分以外を取り壊し、ほぼ現在の姿に整えられた。
第二次大戦末期は国防軍の宿舎として使われ、戦後は長い間保母養成学校が城の中にあった。ドイツの再統一後
時間をかけて修復し、城内に郷土博物館、メクレンブルク公家の居室、玉座などが公開されている。州制度が復活したメクレンブルグ・フォアポメルン州の州議事堂にもなっている。