ドイツ再訪記(1)


SIEPOSTA 2004

2004年9月9日ドイツで作曲家エンゲルベルト・フンパーディンクEngelbert Humperdinckの生誕150年を記念した切手が発行された。
切手には彼の肖像、歌劇「ヘンゼルとグレーテル」の兄妹と魔女、歌劇前奏曲の冒頭部分の自筆楽譜、そしてお菓子の家が描かれている。フンパーディンクの生地ジーグブルク市の収集家団体 Siegburger Briefqarkefreunde e.V. は郷土の偉入を顕彰して記念切手展 SIEPOSTA2004の開催(10月30日〜11月1日)と記念消印の使用を申請した。

作曲家フンパーディンク 2004年発行

日本の収集家団体はJPS系、郵政公社系、独立系等種々あるが、ドイツではドイツ収集家連盟(BDPh)を頂点に各団体組織のヒエラルキーが見事に成立っている。ジークブルク郵趣会の申請は上部団体の中部ライン収集家協会(Philatelistenverband Mitteh hehle.V.)を通じてBDPhに上っていくことになる。BDPhは傘下の関係団体にジークブルクの切手展に協力を呼びかけた(のだと思う)。ドイツの音楽切手収集家団体 Motivgruppe Musik e.Vは当初ドレスデンで集会を予定していたが、BDPhの要請を請けて切手展に協力し、集会をジークブルクに変更した。私はドレスデン行きを楽しみにしていたのだがボンに宿をとってジークブルクへの参加となった。音楽切手部会の会員総会の様子については4年前の参加レポートを本誌132号に掲載されているのでこれを参考されたい。

今回は会員総会というよりも集会といった規模・格式であった。ジークブルクは人口約4万2千人。ライン河右岸に位置しボンから地下鉄(すぐに地上走行になってトラムと変わらない)で20分で着く。歌劇「ヘンゼルとグレーテル」によってのみ知られるフンパーディンクは1854年9月1日にこの町の校長先生の子として生まれた。バッハの時代でも当時でも教師の家族は校舎の一隅が居住区になっており、彼の生家(校舎)は現在市の博物館となっていて記念消印2種のひとつに描かれている。もう1種の記念消印はヘンゼルとグレーテルである。

記念小型印 記念小型印

4年前にここを訪れたが、ヘンゼルとグレーテルのジオラマ、フンパーディンクの頭像、その他写真パネル等があるだけで彼の自筆楽譜、書簡、使用した遺品など何一つなくがっかりした覚えがある。しかし今回は彼の手紙が数点展示されていた。これはこの博物館の収蔵品なのか、それとも今回に限りどこからか借受けたものか....。前者ならば普段でも展示しておくべきと思う。地下2階に相当するところに古代ローマの遺構が見られる程度で他に何の目玉もない博物館なのだから。

フンパーディンクのキャリアはPaderbom、Köln、Münchenで学びBerlinで活躍、引退後Neustrelitzで没している。つまり出生地Siegburgに彼の遺品は殆どないと言ってよいのではないだろうか? だから今回展示されていた遺品はどこかから借り出されたものではないかと私は想像するのである。

"ジーポスタ2004"はフンパーディンクの生家が描かれた記念消印にRank2とあるとうり地方切手展である。かなりローカルな切手展だがそれでも会場は生家で現在の市立博物館と市庁舎ロビーの2箇所が会場となっていた。小なりといえ主催者はドイツ収集家連盟の会員である中部ライン収集家連盟のそのまた会員ジークブルク郵趣会Siegburger Briefmarken e.V.Mitghed im Philatehstenverband Mittelrheine.V.im BDPh e.V.と誇らしく明記されていた。

実行委員会には名誉総裁としてノルトラインヴェストファーレン州の首相P.シュタインブリュック氏を戴き、以下ジークブルク市長等各名士が名誉職に名を連ねてミニペックス程度を想像していたものとは規模が違っていた。ドイツ郵便会社DeutschePostが出張窓口を設け、記念消印の押印のほか、各種記念切手やポスタルスティショナリー等の額面販売を行っていた。彼ら職員にとっては休目出勤になるわけだが、仄聞するところではその勤務手当は2.5倍なのだという。本当だろうか? 日本では深夜残業でも35%増し位だったような記憶があるが。会場では入場者にくじ引きが行われ、私には西独Mi.#168の未使用切手を引き当てた。カタログ評価は決して安くはないが、4種セットのうちの1枚では扱いにくいものだ。

実はこの切手展はフンパーディンクの記念のほかにもうひとつある。それはジークブルクの住人がブラジルに移民して180年目を誕っているのである。ブラジル移民180年記念小型印180年前といえばナポレオンが失脚してウイーン体制となり、この辺はプロイセンの領有するところとなった頃ではないだろうか。勿論このための記念消印も用意されていた。移民100年後の1924年ブラジルのサン・レオポルドにモニュメントが建てられこれが消印に描かれている。ドイツのブラジル切手収集家の団体が音楽切手部会とともに協力した。展示は日本式に言えば、ジュニア・オープン展示・テーマティク・伝統郵趣・文献等のカテゴリーになっていて、特別展示として音楽・ドイツからのブラジル移住・ナチス政権下の収容所郵便があった。

特別展示はもうひとつ広島原爆カヴァがHiroshima・Brief-Mahnung für den Frieden (平和への警告) という副題で鉛のフレイムに入れて展示されていた。3年前のNAPOSTAでも展示されていたもので、諸所の切手展で人寄せ的目玉として使われているのではないだろうか。
お目当ての音楽切手は展示を見た後いささかショックを覚えてしまった。

一口に言えば彼我のレヴェルのあまりに大きな差があることである。カタログコレクションをしている方、ある分野の専門コレクションをしている方に対してテーマティックコレクションについて長々と記すのは止めるが、要はコレクションの視野が広いのである。私は彼らに我々日本人は音楽に関する知識・教養はドイツ人に優るとも劣らないと強弁したが、それが収集に結びついていないと痛感したのだった。我々は収集の対象範囲にあるものはできるだけ集め、それを他人に開陳して羨ましがられる時、収集の醍醐味・快感の最たるものを覚える。 それがために収集行為が時にして大げさに言えば苦痛に感じられるほどのこともある。これはドイツ人収集家も同感ていた。しかし彼らのテーマティック展示を見ると具体的な話は避けるがもっと精神的に余裕を持って収集を楽しんでいるように思えるのである。折角持っている知識をもっと収集対象に生かさねば、と自戒した次第であった。

BrühIの世界遣産

ドイツ到着の翌日10月29日金曜日ブリュールの世界遺産アウグストゥスブルク城とファルケンルスト城Schloβ Augustusburg & Jagdschloβ Falkenlustを訪れた。ボンとケルンのほぼ中間〜30分の時間に位置し、ボンからはDBでもトラムでも行ける。しかしDBの方が駅を出た真正面にアウグストゥスブルクがファザードを向けているから分りやい。

建物外観の壮麗さにも驚かされるが、それにも増して内装の豪華絢燗、目も綾なきらびやかさには度肝を奪われる。1997年発行 世界遺産アウグストゥスブルク城とファルケンルスト城大よそ わび・さびとは対極にある。建設に関わった3人の建築家のうちBalthasar Neumann (Mi#1307 嘗ての50マルク紙幣にも彼の肖像がある) はヴュルツブルクの世界遺産レジデンツも手がけており階段室はよく似ている(当然か)。が、レジデンツの方が心持ち大きいような気がする。
しかしここの世界遺産は付属する庭園がこれまた見事である。クレメンス・アウグストが好んだ狩りのための城ファルケンルスト ( 鷹の楽しみといった意味) 城は壁面がデルフト陶で覆われ、狩の図柄に徹している。向って左翼棟が狩猟の博物館になっていて内装工事中だったが観覧はできた。
傍らには付属のチャペルが建っているが、なんと貝殻を埋め込んだ装飾に徹している。ブリュールの世界遺産は随時入城ではなく見学者が20人位になるとガイド付で入館が許される。その間に入場券や絵葉書・記念品などを買って待つことになる。アウグストゥスブルク城からファルケンルストへの道すがらは昼なお暗い深い木立がそびえて頭上を覆い、晩秋のさわやかな空気に心洗われる思いだった。 ( K .K )

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