博物館街
フランクフルトは今回で2度目になるが、訪独すればいつでも市内観光の機会はあると思うせいかあまり見ていない。5年前初めて訪れたときは、ティシュバイン描く「カンパ
ーニャのゲーテ」を鑑賞せねばとシュテーデル美術館を訪れた。
しかしここはドイツ有数の美術館で、イタリアルネサンス・ドイツバロックから近現代までの膨大なコレクションがあり、ゲーテをひと目見ようとした私のとんでもない認識不足であった。一日を費やして鑑賞したが、スーベニアショップだけでも東京の大型書店ほどの規模であった。付随するカフェレストランは「ホルバイン」という巨匠の名前でもあった。フランクフルトを東西に流れるマイン川の
南岸に面してシャウマインカイSchaumainkaiという通りがある(kai=河岸)。
実態は博物館通りといってもよい。ざっと6〜7つの博物館があり,シュテーデル美術館はそのひとつである。隣にリービーク美術館がありここは彫刻館となっていて、かのリーメンシュナイダーの「四福音記者」の像がある。今回こを目当てに訪れたのであるが、古代エジプト・メソポタミアから近現代までの彫刻が網羅されていて観るのに一日がかりであった。リーメンシュナイダー(1460頃〜1531)による木彫はドイツ彫刻史上を代表する存在である。彼の主題は主に宗教的なもので内観的且つ敬度な宗教感情は他の作家にみられない深みを持っている。彼の彫刻作品が持つ宗教性は音楽におけるバッハと比肩できるだろう。
4年前にヴュルツブルクでリーメンシュナイダーの作品群に触れ、虜になった私はぜひともこれを見ずには、と訪ねたのであった。4人の福音記者のうち聖マルコが1967年発行のベルリン切手に描かれている。
切手の発行趣旨はベルリンにある美術品となっているが、資料を渉猟するとリービーク所在となっている。ベルリンから恒常的に貸し出されているのか、現在は所有が変わってるのか? いつか機会があったらこのシャウマインカイにある他の映画博物館や郵便・通信博物館も訪れたいものである。シャウマインカイの堤防の下はムゼーウムスウーファMuseumsufer という名前である。kaiとuferの違いはよくわからないが、uferは埠頭という意味もあり、より水に近い場所をさすのかも知れない。
フランクフルトの切手から
フランクフルトFrankfurtのfurtは英語のfordに相当し、川の中洲・浅瀬を意味する。Querfurt,Schweinfurt,Erfurt,Stassfurtなど列挙するとfurtのつく地名はきりがない。マイン川の渡河地点として格好で、蛮族を駆逐したローマ軍団の駐屯地がフランクフルトの始まりである。カロリン王朝のカール大帝(シヤルルマーニュ)は西暦794フランクフルトで王国会議を兼た教会会議を主宰した。1200年後の1994年にこれを記念した切手が発行されているので、これを基に今回訪ねたところを紹介してみる。
@エツシェンハイマー塔
フランクフルトの地図を見ると、何々Anlage と名のつくギザギザの通りが市域を取り巻いている。これが昔の城壁/堀の跡で、函館の五稜郭のスケールを大きくし複雑にしたものと考えてよいだろう。この北かたの街道入口に位置するのがこの塔である。1426年頃に建造されたが、盛時には60程あった塔の中では最も贅を尽くしたものだという。5つの小さな尖塔が部にあるほか、側塔もついている。
A聖レオンハルト教会
未見。詳細不明
Bパウルス教会
ほぼ円形の建物に塔屋がついたロマネスク様式の教会。殆ど何の装飾もなく、一般の教会にあるような華麗さ.はない。ゲーテは1833年この教会が造り替えられたとき、周りの建造物とのミスマッチを批判している。外壁にフランクフルト名誉市民に叙せられた元市長のヴァルター・コルプ、.ボイス大統領、ケネディ大統領などのレリーフがあり、正面入口に「1848年5月18日から翌49年5月30日まで第1回ドイツ国民会議が開催された」旨の碑銘がつけられている。その概略は以下のようなものだった。産業革命により社会格差が顕著となった時代を背景にパリで二月革命が起こった。これがドイツ各地に飛火、三月革命となった。ウイーン体制は崩壊しメッテルニヒは失脚、各領邦国内に自由主義政権が生まれた。オーストリアとプロイセンが市民蜂起に屈したとの報にフランクフルトの自由主義者・民衆はドイツの自由と統一が出来すると期待した。国民会議は当初予定していたレーマーの市庁舎皇帝の間が狭すぎたので、急ぎ市庁舎裏手に位置するパウルス教会へ移動したのであった。しかし三月革命
は、王侯諸君主を屈服させたとはいえ彼らの支配体制をそのまま残したことと、突然生まれた議会と臨時政府ゆえに内実を伴っていなかった。
つまり理想を論議している問に現実との乖離に対応できず崩壊していった。しかし統一と自由のイデオロギーはヴァイマール憲法や現在のドイツ基本法(憲法)に連綿と受継がれてる。
1981年発行の「民主主義」切手3種のうちのFDCのカシェに1848年の国民会議議場が描かれているのでご覧いただきたい。(カシェの元となった絵を表示します)第2次大戦後間もない1948年、国民会議100周年記念の日に全国からの寄付をもとに教会は戦災から再建され、東西ドイツ分断中は、民族統一のシンボル的存在ともなった。ドイツ人とドイツ史にとって欠かせない由緒ある建物である。
Cアルテオパー
会報157号(2005年2月)に記載あり省略。
Dハウプトヴァッへ
列柱アーチのあるバロック建築。1671年フランクフルト市民軍(フランクフルトは皇帝勅許の自由都市)駐屯所として木造で建てられ、1729年現在の形に建設された。牢獄も備えていたという。通常民兵はフランクフルトを訪れた貴賓のエスコート、送迎の儀式がその役割だった。現在はカフェレストランでツァイルに面し観光客で賑っている。
Eフランクフルト大聖堂
正式には聖バルトロメオ大聖堂という。13〜15cに建てられたが、高さ95mの塔は1877年に完成してドームの建築は漸く終了した。そもそもローマ帝国皇帝の戴冠式はアーヘン大聖堂で行われるのが慣しだったが、1562年マキシミリアン2世がここで戴冠して以降10人の皇帝が即位している。1788年レオポルト2世が戴冠のためにフランクフルトを訪れたとき、随行を許されてもいなかったモー
ツァルトは勝手にここを訪問し、ピアノ協奏曲26番「戴冠式」を献上した。しかし連日の儀式の最中この名曲は大して顧られなかったようである。
1792年フランツ2世の戴冠式が最後となり、ナポレオンによって神聖ローマ帝国が名実ともになくなってからは、ハプスブルク皇帝の即位はフランクフルトで行うこともなくなった。ローマ帝国関連の品々を収めた博物館を併設しているがこれは未見。
Fレーマー
レーマーベルク広場に面して建つ旧市庁舎。1405年に市は3件の建物を買い上げ市庁舎に改造した。真ん中はツム・レーマーという屋号の商家で、長年ローマと取引をしていた豪商の家だった。この屋号が市庁舎そのものの名前となり、前の広場をレーマーと呼ぶようになった。代々のローマ皇帝が戴冠の祝宴を張った「皇帝の間jがあるが、まだ度も中に入ったことがない。1765年ヨーゼ
フ2世の戴冠式では、当時16歳のゲーテがこの皇帝の問に潜込して目撃している。フランクフルトを観光すると誰でも必ずこの広場に立つし、私も同様だが足が棒のように疲れていつも(といっても2度だけだが)内部の観光を見送っている。広場は中国入観光客が多く、10人15人と群れているのですぐ分かる。嘗てのノーキョーご一行もかくやと思う。
Gゲーテハウス
ゲーテの生家。前を通っただけで内部は未見。
Hニコライ教会
切手には塔楼しか見えないが、この塔はレーマー広場に面したニコライ教会のものである。レーマーに向って広場の右手にあり、否でも目に付く綺麗な建築である。12世紀中頃は王室の礼拝堂だったというが、15世紀にはフランクフルト市の教会だった。現在は聖パウロ会に属しているという。1日数回仕掛
け時計が動くというがこれは未見。
Iボッケンハイマー塔
未見。アルテオパーの西にボッケンハイマー・ラントシュトラーセ、東側にボッケンハイマーシュトラーセ、北側にボッケンハイマー・アンラーゲといった通りがあるのでこの近辺にあるものと思う。
Jカタリーネン教会
ハウプトヴァッへに面して広場の向かいに建つ教会。この教会も1944年の空襲で被災し60年台になって再建された。ゲーテが受洗した教会として有名。中に入ったことはない。
以上で切手図にある建物の紹介を終える。背景のマインハタンと椰楡される高層建築は除外した。また他に不明の建築はあるし、ここに取り上げたもので誤りがあればご指摘賜りたくお願いする次第である。
ケルンの街角
11月1日(月)、午前中は切手展「SIEPOSTA」を参観し午後は急遽ケルンへ赴いた。この日は万聖節という固定祝日で、仏教でいええばお盆のようなものである。リヒャルト・シュトラウスのリート「万霊節」のメロディを口ずさみながらケルン見物したいところだったが市中は物凄い観光客で大混雑だった。5年前に来たときはミサの最中で入口付近に停んでいただけだったが、今回は聖遺物、ステンドグラス等を鑑賞。宝物館にも入った。選帝侯のお膝元だけに大変煌びやかで豪勢なものだが、4年前に見たアーヘン大聖堂の宝物館の方が歴史的に面白いと思った。カール大帝やフリードリヒ・バルバロッサ縁の品があるのだから。ケルンで通りがかりの応用芸術美術館脇にFranz Wallraf (1748-1824)とHeinrich Richartz(1795・1861)の大きな坐像が二っあった。この二人のコレクションがケルン美術館と通称されるヴァルラーフ・リヒャルツ美術館の基となったのである。が、どうして別の美術館敷地においてあるのか不思議なことだ。
この美術館はレンブラントやルーベンスをはじめとする古今の名品でいっぱいだが、ワンフロアを中世以前の祭壇画・祭壇彫刻(altar)で満たしている。ケルンの守護聖女ウルスラに関するものも勿論多い。今年1月に発行された「三賢人」(会報159号11ペイヂ参照)もここの収蔵品である。ドイツの美術館はみな重厚な建物が多いが、ここは現代的で無機的な感じが強い。
追記 万聖節と万霊節
カトリックでは1年の殆どの日を聖列された聖人を当てはめている。
例えば聖ヴォルフガングは10月31日、ネポムクの聖ヨハネは5月16日という
ように。しかし聖人の数は1年分の何倍にも及び当て嵌め切れない聖入をまとめて11月1日に祝っている。これが万聖節である。
ネポムクの聖ヨハネ600年忌諸聖人の日・万聖節をドイツ語ではアーラーハイリゲンAllerheihgen と言い、英語ではオールハロウズAll Hallows 、或いはハロウマスHanowmas という。
余談ながらハロウマスの前夜祭10月30日がハロウィーンである。一方万霊節はわたしの記事通り亡くなった故人を偲ぶ日であって、11月2日がそれである。しかし祝日にはなっていない。ドイツのカレンダーを見ても11月1日は祝祭日となっていない。ドイツの人口は大雑把に3分の1がカトリック、3分の1がプロテスタント、残り3分の1がその他の宗教及び無宗教といわれている。わたしが旅行したケルンはノルトライン・ヴェストファーレン州としての祝祭日だったのだろう。何で切手展の開催日が月曜目(11/1)までなのか分からず、現地で漸く納得した次第であった。プロテスタントではマリア崇拝も諸聖人崇拝も認めていないから、国全体の祭日とはならないのだと考えられる。
カトリックでは幼児洗礼を行うが、幼児の誕生目に当る聖人名を洗礼名Bapttist Name にすることがある。例えばモーツァルトの誕生日1月27日は聖テオフィルスという聖人の日である。彼の戸籍(といっても教会の受洗簿)にはJohaoes Chrysostomus Wolfgang Theopholus Mozart と記載されている。Theophilus のTheoはギリシャ語で主=神という意味があり、Philoは好む・愛好するという意味がある。このPhiloに知恵・知識という意味のギリシャ語をつけたのがPhilosophy 哲学で、他にこのような接頭語をつけたものには郵趣Philately、音楽愛好Philharnlonic といった言葉も存在する。
モーツァルトは長じてTheophilus に代えAmadeusを名乗った。Amadeus をドイツ語ならばアマドイスと言うべきなのだがアマデウスである。これはラテン語だからで、Amor愛とDeu主・神という意味になる。つまり自分の洗礼名をラテン語に置き換えて名乗ったわけである。映画「アマデウス」では題名を「モーツァルトとサリエーリ」とか「モーツァルトの死」にしなかったのはサリェールが刻苦勉励しても並みの音楽しかつくれなかったのに、性格も生活もチャランポランなモーツァルトが素晴らしい音楽を作れたのは彼が神の恩恵を得たからというのがこの映画(その前の芝居の台本)テーマだからである。テオフィルスもアマデウスも神の祝福を受けた名前ということになる。
「終」(K・K)