5年前に初めてドイツを訪れたその報告「ドイツ初訪記」でボンの町については会報132号に記しているし、ボンの1日墓地については会報148号に記しているが、今回2度目の滞在でこの町について更に少し勉強したのでそれをご紹介したい。現在のボン市がある場所に最初に居住したのはケルト人らしいが、史上に現れるのはローマ帝国ライン軍団の駐屯地が紀元前12年に設営されてからのことである。
この町は戦災を殆ど受けなかったので世紀末から20世紀初頭の趣のある町並みが残っており、風施地区として保全しているということは会報132号に記したとうである。市の南部ドイツ郵便会社ビル方向へ向う町並は高級官僚、駐独外国人等の瀟洒な街区を成していて、旅行者の私にはドイツで住むならボンがもっとも好ましく思える。大都市の喧騒がなく、かといって文化的社会的刺激は充分満たされている。長年ケルン選帝侯領としてあったが(前稿に記したブリュールのアウグストゥスブルク城もそうである)、ナポレオンによる神聖ローマ帝国解体後のライン同盟を経てウイーン会議後はプロイセンに所属した。ライン河畔の小さな町は戦後ドイツ連邦共和国の暫定首都としてあったが、それもベルリンへ移転し元の人口30万人の小都市に戻りつつ史書に現れたライン軍団駐屯地ボンはカストラ・ボンネシア(ボン城塞)としてであって、塩野七生の「ローマ人の物語」によると初代皇帝アウグストゥス時代である。1989年に発行されたボン2000年の記念切手に基いてこの町について記してみたい。
(1)ケーニヒ博物館
正式名称はZoologisches Forschunginstitund Museum Akexander Kloenigという。コレクターのアレキサンダー・ケニヒによる動物学者・によるコレクションと動物学研究所を併設している。切手図は小さくてわかりにくいが破風の上にはアテナ神と思われる女神像があって重厚な趣をなしている。
(2)旧連邦政府合同庁舎
ケーニヒスヴィンターのドラッヘンフェルスからもこのビルが望めた。DPのガラス張りビルがなければボンで一番ののっぽビルだった。現在は空家。
(3)Palais Schaumburg
1858〜1860年に建設。 1890年にPrinz Adolf Wihehn Victor zu Schaumburg-Lippeとその妻 Prinzessin Wilhelmine Victoria von Preuß(皇帝ヴィルヘルム2世の姉妹)が入居し、長年ボン社交界の中心となった。1936年に第三帝国が買い取り、1945年には占領軍宿舎となった。1949年11月5日に「連邦首相官邸」に選ばれ、以来1976年までに11の内閣がここで会議を開いたと言う。
(4)旧ボン大学解剖学研究所
ホテルから駅への道すがらボン大学((7)項で詳述)に対面して趣のある建物が目に付いた。建築様式に疎い私には何形式かわからないが新古典様式なのだろうか? シンメトリックなファザードで左右に大きな裸身像が立っている。その日の晩、ドイツ人にホテルへ送ってもらう帰り道にここを通り、シンケルの建築だと聞いて驚いてしまった。
シンケルKarlFriedrichSchinke1(1781ー1841)はドイツの新古典主義の建築家・画家で、ベルリンの主要な建築物を多数設計し、その首都景観を一変させた人物である。そのシンケルの建築作品とベルリンから程遠いライン河沿いの町とが結びつかず意外に思ったのだった。しかも夜間でよくわからなかったが、もうひとつシンケルの建築があってこれも現在ボン大学の付属だと聞いた。確か法学関係の施設と聞いた。しかしプロイセンはナポレオン没落後ヴェストファーレン、ラインラントを領有するようになったのだからシンケル作品がボンにあっても当り前と聞いて納得したのだった。1884年以来大学の考古学研究所施設となっており、Akademische Kunstmuseum der Universtät Bonn(ボン大学学術美術館)と呼ばれている。
(5)Villa Hammerschmidt 1860年頃、建築家August Dieckhoffの構想に基き建設された。ロシアの「砂糖王」として財を築いたLeopold Koenigが1868年に買取り、建築家Otto Pennerに命じて改築させた(この時にほぼ現在の姿になる)。1901年、枢密商業顧問官Rudolf Hammerschmidtが所有者となった。第1次世界大戦前にはボン社交界の中心。1929年以降は数世帯用の賃貸アパートとして使用された。第2次大戦で戦禍を免れ、1950年に西ドイツ国家が買取り、1951年以来連邦領官邸となった。
(6)Ernst Moritz Arndthaus
ドイツの愛国詩人・歴史学者であるアルントの切手は東西両ドイツから発行されていて、ドイツ史上必現の人物である。本誌148号で彼の墓地について記したことは承前のとおり。ナポレオンのドイツ侵攻に伴い反仏感情を込めた「時代の精神」をもってドイツ人民族意識を代弁して反響を呼んだ。ウィーン会議による反動体制を批判し、1818年ボン大学教授に就任したが、2年後解任された。フランクフルト国民議会(次号パウルス教会の項で詳記の予定)では議員としてプロイセン主導の立憲帝政を主張した。5年前ベートーヴェンホール近くのラインを見下ろす丘に時代物の大砲と彼の銅像があったのを思い出す。
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(7)ボン大学
ケルン選帝侯ヨーゼフ・クレメンスによって1697〜1725年に築かれた広大な宮殿。現在ボン大学の校舎となっている。わが国の小塩節、田辺秀樹といったゲルマニストもここで学んだが、 過去を見るとハイネ、マルクス、アデナウァーといった著名人が名を連ねている。彼らの名を列記するときりがないが教授陣としては、「ヘルツの力学」で知られる物理学教授ハインリヒ・ヘルゾールの構造式を解明したアウグスト・ケクレが科学教授としてその偉大な生涯をここで終えた。校庭には1803年除幕された彼の銅像が立っている。
(8)オペラハウス
滞在中ここでドニゼッティの歌劇「ドン・パスワーレ」を観ることができた。何よりも歌手たちのノリがよく、それが観客に伝わって拍手喝采であった。この劇場はKゲスラー、Wベックエルラング共同設計により1962年にオープンした。この劇場の搬入口がホテルの窓の正面にみえていた。客席が左右非対称でこのような例は他に見たことがない。ライン右岸からはベートーヴェンホールとともによく見え、ボンの景観をなしている。
(9)ポッペルスドルフ城
ボン市内にあるケルン選帝侯の居城。現在はボン大学の所属で生物学系の学部がある。10世紀にはカッシウス派の修道院が建つてポッペルスドルプ都名づけられたのが固有名詞となった始まりである。1715年に選帝侯ヨーゼフ・クレメンスの宮殿としてフランスの建築家Robert de Cotteにより建造された後期ロココ風の建物。1753年に後継の選帝侯クレメンス・アウグスト(ブリュールの世界遺産アウグストゥスブルク城を参照)の時代に有名な建築家バルタザール・ノイマンによって現在の形となった。駅近くからポッペルスドルフ城正面へ一直線に続く約1キロのポッペルスドルフ・アレーはとても美しい並木道で中央は緑地帯、両側一帯は高級住宅地となっている。夏はここで野外コ
ンサートが催されたりするらしい。
(10)ミュンスター寺院
ボンの大聖堂ミュンスター寺院は東西に二つの祭室を持つラインロマネスク様式である。基はローマ時代の殉教者の墳墓の場所に建てられ、1239年の火災後に再建されたものが現在の建築姿となったという。この寺院にあるクロイツガング(中庭を囲む回廊)はなかなか素敵である。夏ならなおいいだろう。
(11)旧ボン市庁舎、現迎賓館
中央駅から数分で上記の寺院があるミュンスター広場。更にその先数分にマルクト広場がある。この広場の東側に瀟洒に立っている館が旧ボン市庁舎である。1738年の建設でバロツク様式の見事な建築である。西独時代は迎賓館
1965西ドイツの州都シリーズとして使われたが、外国要人が来訪して時ならぬセレモニーがあると広場の観光客は望外の余禄にあずかったことだろう。
(12)ベートーヴェンホール
このホール落成を祝して1959年立派な小型シートが発行されているのはご存知のとおり。S・ヴォルスケの設計による。1959ベートーヴェンホール落成(部分)ライン河畔の高台に建っており、オペラ劇場とともにラインからのボン市の景観をなしている。しかし築後45年を経て老朽化が大きいらしく音響効果については悪評紛々であることは5年前の報告で記したとおりである。今回も聴きにいく機会はなかった。
(13)Sterntor
中世の時代に町を取り囲んでいた城壁の市門。もともとはSternstrssにあったが記念建造物として現在のBottler広場に移築された。
(14)ボン市行政庁舎
フランクフルトほどではないがボンにも所々現代建築が散見される。終戦直後人10万の市は暫定首都ということもあって人口急増し現在は30万人に至っている。それに対応できうる規模の庁舎となったのだろう。
(15)べ一トーヴェン像
ボン中央駅からポスト通りを進むとミンスター広場に出る。この広場の中央にベートーヴェン像が立っている。この像はドレスデンの工芸家ヘーネル原型を作りニュルンベルクで1845年に鋳中央郵便局とベートーヴェン像が立っている。この像はドレスデンの工芸家ヘーネルが原型を作りニュルンベルクで1845年に鋳造された。この年8月12日英国のヴィクトリア女王夫妻、ドイツのフリードリヒ宴世等の臨席のもとに序幕式が行われた。その祝賀音楽祭にはF・リストが指揮とピアノ演奏をし、フランスからはH・ベルリォ一ズも参じたという。1992杜会福祉歴史的郵便局ミュンスター広場にはベートーヴェン像が背中を向けている側にボン中央郵便局がある。旧ブユルスアンベルク伯爵邸だったもので、並みの郵便局とは違う風格のある建物である。像を正面から写真に撮るとこの郵便局がバックに収まることになる
(16)水中翼船
ケルン・デュッセルドルファー船舶交通会社(KD)の水中翼船で、時速100キロまで出る高速ボートである。ケルンーローレライ問を航行する。私が宿泊したライン湖畔のホテルベートーヴェン前に船着場があり常にこの船が停泊していた。船腹にKö・Düsseldorferという赤い文字が大きく描かれていたのが印象に残っている。
(17)シューマンハウス?
最初シューマンハウスかとおもっていたが異るようなので否定。
(18)ゴーデスブルク城塞
実はこの城を確実に視認した覚えがない。というのは列車に乗っているといつもライン河方向ばかりに目を向けているので左岸の見通しの悪い山側を無視していたのである。1938年9月22日ヒトラーとチェインバレンが2回目の会談場所となったBad Godesbergの小高い丘にこの城Godesburgがある(bergとburgの差異に注意)。ローマ時代以前には既に蛮族の祭礼が行われていたらしい。そうだとするとゲルマン人の原始宗教ドルイド教かもしれない。ローマ時代、フランク王国時代を経て、城は13世紀に確立され中世にはケルン選帝侯の所領となった。1583年に城が破壊されて以来、廃櫨のままだったが1960年に再建され現在はホテル、レストランとして使用されている。この城はボン市が所有する不動産であり、貸し出されて民間会社が営業しているということである。