第一次大戦後のドイツ喪失領

オイペン・マルメディ


第一次世界大戦終了後、講和会議でオイペン・マルメディ地域はベルギーへの中立侵犯の罰則の意味もあってドイツから切り離されベルギー政府の行政下に置かれました。1920年7月民族自決の原則に沿い帰属を問う住民投票が行われました。しかしドイツ系の住民にとって不利なもので、ベルギー占領軍の脅かしや選挙干渉の下、さらに投票は無記名でなく氏名と住所を記入する条件で実施されました。ドイツ系の人々がドイツ残留に投票したらこの地域より追い出されることを覚悟しなければならない状況で、また食料の配給停止などの脅迫から多くの住民がベルギーへの帰属を選択しました。

国際連盟は1920年9月オイペン・マルメディ地域のベルギーへの帰属を決めます。帰属決定後1925年末まで暫定的にオイペン・マルメディ管理区として統治され、ベルギー切手にEupen、Malmedyの文字を加刷した占領切手を使用しました。1926年1月1日ベルギー領として併合し、ベルギー本国切手が流通します。ベルギーでは言語的にフランス語(公用語)とオランダ語(人口的には多数派)ですが、オイペン・マルメディ地域を自国領としたことで第三の言語としてドイツ語を取り込むことになります。その後この地で生じる紛争を予感させるものでした。

歴史的にはオイペン・マルメディ地域は神聖ローマ帝国領に属し、長い間オランダの一地方としてハプスブルク家の統治下にありました。フランス革命とそれに続くナポレオン時代にはフランスへ併合されます。ナポレオン戦争後のウィーン体制では台頭してきたプロイセンに併合され、ドイツ時代が始まります。 16世紀スペイン領オランダではプロテスタントへの弾圧でスペインに反旗を翻し北部7 州がネーデルラント共和国として独立しました。カトリックのベルギーを含む南部地域南部はスペイン領に留まりました。三十年戦争、スペイン継承戦争を経、ベルギーはハプスブルク家の支配下に入りますが、ナポレオン時代フランスに割譲されます。1915年のウィーン会議にてベルギーは再びオランダの下に統合されることとなりました。しかし、ベルギーはカトリックの国ですのでプロテスタントの支配者を受けいれることはできないとして1830年独立を宣言しました。1839年になってオランダはベルギーを承認、平和条約を調印し以後ヨーロッパ列強はベルギーを永世中立国と認めました。

三番目の言語集団としてオイペン・マルメディ地域のドイツ語住民を抱えることとなったベルギーではフランス語住民とオランダ語住民とは長い間言語紛争(民族紛争)を経ているので、エルザス・ローリンゲンにおけるフランス、南チロルにおけるイタリアが取ったような言語、文化の同化政策はとられませんでした。しかし、オイペン・マルメディに先祖代々住むドイツ語住民にとってはナポレオン時代のフランス占領期を除けば初めて少数民族として異民族の支配を受けることとなりました。 時代が下って第二次大戦が始まると、ベルギー、オランダは中立を宣言していましたが1940年5月からの侵攻作戦でベルギーは敗北し、第一次大戦に続き、再び占領下に置かれます。ドイツはベルサイュ条約で喪失したこのオイペン・マルメディ地域を自国領として併合し、ドイツ本国切手を流通させました。この領土の回復も約4年、1945年5月ドイツの敗戦で結局は戻って来ないのです。

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