第一次大戦後のドイツ喪失領

エルザス・ロートリンゲン


アルザス・ロートリンゲンがドイツとフランスとが後々まで係争の地になる発端は17世紀の宗教改革まで遡ります。カトリックとプロテスタントの両陣営の宗教対立から武力対立に発展し、スウェーデン、フランス、スペイン、ハプスブルク家が参戦し多国間戦争になります。戦争は30年に及び戦場になったドイツは戦災により人口の3割を失い、国土は荒廃しました。 フランスに接するエルザス・ロートリンゲンでは外国の傭兵軍団が侵入し、占領下の地域で略奪を繰り返し治安が著しく悪化し、エルザスはフランスに保護を求めました。治安の回復を願ってでしたが、これがフランスにエルザス支配の大義名分を与えることになってしまいました。

この時代フランスに宰相リシュリューが登場し、神聖ローマ帝国およびヨーロッパ諸国間に共有されていたキリスト教的な教義とは異なる国益のためには手段を選ばないという政策で、フランスの巨大化を目指し、フランス領のラインへの拡大を策します。 (反ハプスブルク家を掲げ、ドイツを常に分裂状態に置くことを国是とする) 30年戦争後ウェストファリア条約でフランスはドイツの分裂を果たし、ハプスブルク家の勢力を削ぎ、神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の形骸化に成功します。フランスは事実上アルザス・ロートリンゲン領有の足がかりを獲得し、続くルィ十四世時代には強引な手段で併合してしまいます。ライン沿岸をフランスの草刈場とし、略奪を繰り返し、ハプスブルクに反攻の足がかり与えないためにラインの焦土さえ強行します。

18世紀末のナポレオンの登場はドイツに更なる試練を与えることになります。ドイツ、オーストリアを各個撃破し、ヨーロッパを制覇、ドイツはその支配下に組み込まれ、ライン地域はフランスに併合されます。しかし、ナポレオンのドイツ支配はかえって分裂していた領邦国家群の再編が進み、後のドイツ統一への道筋が出来たとも言われています。国土を半減され、国家滅亡寸前まで追い詰められ、過酷な占領政策下でプロイセンの反仏感情は残留し、そのエネルギーがドイツ統一に向かわせます。 1870年の普仏戦争で戦勝したプロイセンはドイツ統一を果たし、第二帝国となります。講和条約でアルザス・ロートリンゲンを取り戻しますが、フランスのエルザス・ロートリンゲンの喪失の屈辱感から対ドイツ復讐に向かうことになります。以後この地を巡って独仏はお互い宿敵として第二次大戦後まで争います。

なぜビスマルクはオーストリア戦で領土の割譲の要求をしなかったのに、エルザス・ロートリンゲンをフランスから奪還したのでしょうか。ドイツの統一という最大の目標が果たされたのであれば、復讐の種となるドイツへの恨みを残すことはまずいと戦略家のビスマルクが考えていないはずないのですが。 だからこそ勢力均衡思想のメッテルニヒの後継者たるビスマルクはフランス以外の国を友好国、同盟国に取りこみ、フランスの包囲する外交を展開します。そして国際紛争が生じると調停役を買って出てヨーロッパの平和外交を演じるのです。それがドイツの安全保障になっていたわけですが、後継者たちはビスマルクの政策を理解せず、逆に包囲され大戦にも負けエルザス・ロートリンゲンは再びフランス領となります。

ドイツ領時代の郵便局名

ColmarMetzStrassburgmulhausen

Bad-NiederbronnHohwaldSennheim

Metz-BingerbruckStrassburg-Frankfurt

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東プロイセンメーメル

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