第一次大戦後のドイツ喪失領

北シュルスビッヒ


北シュレスヴィヒがドイツ領となった経緯はプロイセンによるドイツ統一前の1864年に遡ります。 現在ではドイツとデンマークと境を分けているシュレスヴィヒはドイツ人とデンマーク人が混在している地域で、ドイツ人とデンマーク人との紛争が絶えませんでした。 このシュレスヴィヒと隣のホルシュタインの二公国はドイツ、デンマーク間で長い間帰属が不鮮明でした。ホルシュタインがドイツ連邦含まれる一方、二公国はデンマーク国王と同君連合関係にありました。このシュレスヴィヒと隣のホルシュタインの二公国はドイツ、デンマーク間で長い間帰属が不鮮明でした。ホルシュタインがドイツ連邦含まれる一方、二公国はデンマーク国王と同君連合関係にありました。 事の起こりはデンマークがシュレスヴィヒ、ホルシュタインを自国に併合しようとしたことから紛争は拡大します。ドイツはオーストリアと共同作戦でシュルスヴィヒに侵攻しデンマーク戦争が始まり、戦勝の結果ドイツはシュレスヴィヒ、オーストリアはホルシュタインを獲得します。

ここで言うドイツは統一前ですのでプロイセンです。1866年の普墺戦争、1870年の普仏戦争を経てプロイセン主導のドイツ帝国が成立するのはご承知の通りです。 時はナポレオン戦争後のウィーン体制が綻び、列強が利害の衝突、ナショナリズムの高揚など混沌とした世情でした。フランスではナポレオンの甥ナポレオン3世の野心が鎌首をもたげ、ヨーロッパに再び覇権を確立しようと蠢動していました。 ドイツはロシア、イギリス、フランスとの列強の均衡の上にあるとは言え、統一国家の形を成していませんでした。ドイツ連邦の枠組みの中に数は30余りに整理されたものの、領邦国家がひしめき合っており統一国家とは言えませんでした。列強に伍していくには統一はいまや国民的な願望になっていました。統一という面で一致はしていても自由主義者、民族主義者の両陣営ともいわゆる大ドイツ論、小ドイツ論をめぐって議論は定まりませんでした。神聖ローマ帝国の座から降りたハプスブルク家のオーストリアは昔日の力は失っていましたが、ドイツ連邦を束ねる議長国として威信を維持していました。

北シュレスヴィヒにおけるドイツ語地名 プロイセン国内でも国論が割れ憲法問題もあり、政局も定まりませんでした。ビスマルクの登場した時はこんな状況でした。後に鉄血宰相として知られるビスマルクはプロイセン主導で統一への道筋を模索していました。オーストリアは多民族国家であり、ドイツ民族を糾合しての統一には邪魔な存在になるとみており、また最終的にはフランスとの戦争を回避してのドイツの統一はありえないとも考えていました。 北欧諸国では「汎スカンディナヴィア主義」が台頭し、デンマークはシュレスヴィヒ=ホルシュタインの不可分と宣言していました。 ホルシュタインのドイツ人はデンマークから独立を画策しプロイセンの支持を望んでいました。両陣営のナショナリズムの高まりは一発即発の危機を生み出します。 ビスマルクは戦うに当たって二正面作戦を極力避け、一国のみと戦う段取りに気を配ります。ロシア、フランスに干渉させぬよう策謀(根回し)、外交を駆使し、勝てる状況で戦いを始めているのです。

デンマーク戦争でビスマルクの深慮遠謀なる外交が開始されます。ロンドンの列国会議の決定をデンマークが破ったことを大義名分とし、列国会議の決定に従う姿勢で列国の干渉を排し、オーストリアを巻き込むことでドイツ連邦内での揉め事としプロイセンの野心を隠していました。 対デンマーク戦により国論を一気に統一戦争へ駆り立て、民族の壮大な戦略の出発点となったシュレスヴィヒ獲得となります。 時代は下って第一次大戦後戦勝国の連合国によってシュレスヴィヒは民族自決の住民投票が実施され南部はドイツに残りましたが、北部はデンマークへ帰属が決まりました。

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