第1回 | ヒンデンブルク切手とは |
第2回 | ヒンデンブルク切手の年表 |
第3回 | ヒンデンブルクとはどういう男 |
第4回 | ヒンデンブルク切手登場 |
第5回 | メダル型シリーズ (1) |
第6回 | メダル型シリーズ(2) |
第7回 | メダル型シリーズ 鉤十字透 |
第8回 | メダル型シリーズ 鉤十字透(2) |
第9回 | メダル型シリーズ 鉤十字透 続きの続き |
第10回 | 占領地消印について |
第11回 | オステン加刷 |
第12回 | エルザス・ロートリンゲン加刷 |
第13回 | ルクセンブルク加刷・他 |
今回もメダルタイプ鉤十字透をつづける。 先にも述べたように、この切手の寿命はかなり長い。約7年間印刷がつづけられている この時期1934年から41年というのはドイツがその史上最大の繁栄を迎えた時代であったから切手の消費もそれだけに多かったことであろう。そしてこの後半期、1939年からは世界大戦が始まり、ドイツ経済は完全な戦時体制に入っている そのこともあってかこの切手にも当然変化があるはずなのだが、ミッヘルカタログでは色調変化はあまり取り上げられない。また用紙の変化もかなりあると思われるのだが、これについても一般的な説明がされているだけである。 小生所有の重品は使用済みばかりなので自信はないのだが、結構色調変化は見られるようである。この辺について文献その他ご存知の方が居られたらご教示願いたい。 さて、話題を変えて消印について触れていきたい。近頃では日本でも外地消し、鉄郵消しから始まってローラー消しや満月消しなどかっての嫌われものも、もてはやされるようになり消印集めも盛んになって来ているが、この駄物の王様みたいなこのシリーズの消印も満更ではない。 どんな切手でもそうだが新額面の切手は初期使用は割に見つかつてもそうでないものは直ちに窓口には出てこないから、初期使用を探すのに苦労する。このシリーズもそのとおりで、1pfの1933年12月消は手に入るのだがそれ以外となると甚だ難しい。(次のシリーズであるヒトラータイプの1941年消しも同様のことがいえる。)先に記載したように1pf以外の大部分は1934年の5月迄に発行され、50pf、100pfが9月に、80pfだけが1936年にだされている。(ミッヘルによる)だから1934年の前半の日付は割りに少ない筈である。恥ずかしながら小生のコレクションの中で1934年前半の日付のあるのはいくらもない。 後期使用は1942年以後ということになるが、1944年、45年となるとこれも少ない。特に1945年ともなればドイツ国内には東西から連合軍が次から次へと都市を占領して行った時であるから地名のわかるものなど興味深いものがある。 満月消し、そこまでいかなくても地名と日付が読めるものの中からいろいろなものが見つかる。このシリーズの間にドイツは大きく膨張したからだ。 先ずザール。ザールは人民投票の結果35年3月1日にドイツへ復帰した。Saarbrückenのこの日付のものがあれば珍重すべき切手である。ザールでは復帰と同時に以前の切手は使用禁止になったから新旧混貼りは残念ながらない。 次がオーストリア。オーストリアは1938年3月13日ドイツに併合され以後ドイツ切手が使用された。Wien、Graz、Insbruck、Kragenfertなどの地名がこのシリーズに見られる。 諸氏の重品の中に1枚や2枚はみつかるかもしれない。なおオーストリア切手は10月31日迄使用が認められたのでこの1938年4月4日から約半年間、独墺両国切手の混貼が存在する。 (ドイツ切手は1938年4月4日から通用した。) |
次はズデーテンランド。ズデーテン地方というのはチェコスロバキアとドイツの国境沿いに略半月形になった地区で昔からドイツ人が多く住んでいた地区である。1938年10月1日ヒトラーは強引にこの地区をチェコから奪ってドイツに編入してしまった。従ってこの日以後この地方ではドイツ切手が使われることとなった。旧チェコ切手は10月19日迄使用が認められたので短期間ではあるが混貼りが存在する。 このズデーテン占領期の切手は非常に複雑である。ミッヘル専門版には多くの都市臨時加刷がある。ドイツ軍占領以前の9月21日にチェコ切手に加刷されているものがあったり、ミッヘルにも記載されていない「ヒンデンブルク切手に加刷した記念切手」(Aussigのみで発行)などもある。このあたりは関西郵趣に現在連載中の○○○氏チェッコスロバキア 歴史・郵便史・切手 特にその1957年7月号に詳しい。 記述が前後するが、この地方の主要局名はAsch、Karlsbad、Reichenbergなどなのだがあまり大きな都市ではないので、これらの地名入り消印はそう多くは見かけない。 |