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ヒンデンブルク切手メモランダム


<第十回>



 第1回  ヒンデンブルク切手とは
 第2回  ヒンデンブルク切手の年表
 第3回  ヒンデンブルクとはどういう男
 第4回  ヒンデンブルク切手登場
 第5回  メダル型シリーズ (1)
 第6回  メダル型シリーズ(2)
 第7回  メダル型シリーズ 鉤十字透
 第8回  メダル型シリーズ 鉤十字透(2)
 第9回  メダル型シリーズ 鉤十字透 続きの続き
 第10回  占領地消印について
 第11回  オステン加刷
 第12回  エルザス・ロートリンゲン加刷
 第13回  ルクセンブルク加刷・他


消印(占領地使用)の説明をつづける。
ズデーテンを本国に編入した翌年、ヒトラーはチェコスロバキアをその手に収めた。スロバキアを独立させ、残りの部分のボヘミア・モラビア(ベーメン・メーレン)を保護領としたわけである(1939年3月15日独軍プラハへ進撃)、チェコの切手は12月15日迄使われたが、1939年7月15日にはベーメン・メーレンの独自切手が使われたし、通貨単位も違っていたから公用便以外にはドイツ本国の切手は使われなかった。

チェコ併合と同時に旧領で奪回したのが第一次大戦後リトアニアに併合されたメーメルである。ここはプロイセン以来のドイツの国土だという主張を貫いて1939年3月23日ドイツ領に編入してしまった。リトアニアの切手は3月31日限りで使えなくなり、以後本国切手が使用されることとなる。9日間の混貼りが存在しえるのだが、さて実在数はどの位だろうか。

1939年9月遂に世界大戦が始まった。
9月のポーランド、翌年4月のノールウエー、デンマーク、5月のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスと戦火は広がっていく。この間、ポーランド、ルクセンブルク、エルザス・ロートリンゲンでは後述の加刷切手が発行されたがその他の所では各々の国の切手が使われて、原則としてドイツ切手が使われたことはない。

但し例外はベルギーのオイペン、マルメディ、モレズネーの三地域である。 即ちここは第一次大戦でベルギーに編入された地区であり、ドイツとしては占領と同時にいち早く本国に編入してしまった。つまりこれらの地区はドイツへ復帰であるという考えである。(併合期日が現在のところ未調査であるが、7月25日には復帰記念切手が出ているところかして占領直後と考えられる。)(註1)

なお、ダンチヒもドイツ本国に吸収された地域であるが、これについてはポーランド地域の説明のところにまとめる。

<追悼記念> 1934.9.4
占領地消印の記述のために少し時代が先に進み過ぎてしまったが時計の針を少々戻さなければならない。第二次大戦勃発の時はもちろんオーストリア合併の時にヒンデンブルクは既に死んでいたのである。

1932年大統領に再選された時彼は既に84歳(註3)次第に目に見えて体力が衰え1934年8月2日に86年の人生を閉じた。ヒトラーは当然のこととして後継者の椅子に座り大統領と首相の地位を兼ね総統と称するに到る。名実共にナチスの時代がやって来た。そして9月4日ヒンデンブルク追悼のため、メダル型図案に黒枠を施した記念切手6種が発行された。

3pf 印刷物、5pf 市内はがき、6pf 葉書、8pf 市内封書、12pf 封書、25pf 外国封書といった最も多く使われる料額である。発行枚数は明らかにされていないがかなりの量が発行され、使用されている。一番高いのは25pfであるが、これとても未使用、使用済とも入手するのに苦労はない。(註2)

ミッヘル専門版にはこの切手についてどういうせいか割合に詳しい説明があるが、印刷方式(輪転版、平台版)やシートマージンなどの違い、HAN番号などで単片で集めている者にとっては縁のない話なので省略する。





 (註1)
ベルギー軍の降伏署名は5月28日である。

 (註2)
使用済はセットで22マルクであるがヒンジなし未使用は155マルク(88年版)と高い。近年戦前のヒンジなし未使用は一般に値上がりが烈しいようである。

 (註3)
先に85才と書いたが10月1日生まれなので正確にいえば再選時では84才である。ついでにいえば網透メダルタイプは彼の誕生日に発売されている。


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