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ヒンデンブルク切手メモランダム


<第十二回>



 第1回  ヒンデンブルク切手とは
 第2回  ヒンデンブルク切手の年表
 第3回  ヒンデンブルクとはどういう男
 第4回  ヒンデンブルク切手登場
 第5回  メダル型シリーズ (1)
 第6回  メダル型シリーズ(2)
 第7回  メダル型シリーズ 鉤十字透
 第8回  メダル型シリーズ 鉤十字透(2)
 第9回  メダル型シリーズ 鉤十字透 続きの続き
 第10回  占領地消印について
 第11回  オステン加刷
 第12回  エルザス・ロートリンゲン加刷
 第13回  ルクセンブルク加刷・他


エルザス加刷 1940.8.15 発行

1940年5月10日、前年秋の宣戦布告以来鳴りをひそめていた西部戦線でドイツ軍の大攻勢が始まった。ドイツ軍はフランス自慢のマジノ線を避けてその北側、つまり中立国であったオランダ、ベルギー、ルクセンブルクの国境を突破した。使用兵力200万、あっという間の出来事であった。オランダもベルギーも降伏し、ドイツ軍は北フランスを直進してドーバー海峡に達した。
その後はダンケルクを占領して英仏軍を海に叩き落とした後一転してパリを攻め、6月23日フランスも降伏した。僅か40日余の戦闘である。
フランスはアルザス・ロートリンゲンを、ベルギーはオイペン・マルメディを失い、ルクセンブルクはドイツ領となった。

1940年8月15日にドイツ本国で使われているヒンデンブルク切手にElsaβと加刷された切手16種が発行され旧フランス切手は8月14日で使用禁止となった。



16種というのは本国切手17種の内最低額面の1pfが除かれているからである。オステン加刷と異なり額面加刷はない。つまり本国の通貨制度マルク、フェニヒが適用されたからである。

この加刷切手は翌41年12月31日限りで廃止され、その後は本国切手が1944年秋の連合軍による解放まで使われた。但し加刷切手発行中も本国切手は使用可能であった。
加刷切手が廃止されたのは1941年8月から本国切手はヒトラー図案に変わったため台切手がなくなり、といってヒトラー図案にわざわざ地名加刷をするほど手間ひまをかける余裕がなくなったからであろう。

いずれにしてもヒンデンブルク切手にこの地方の局名が押されたものがある筈だがそう多くはないことになる。アルザス地方の主要都市といえばストラスブルク、コルマル、ミュールーズなどであろうか。

このシリーズ83年版ミッヘルで未使用50マルク使用済み50マルクと評価は高くない。 但し難易度からいえば使用済みに割合感が強い。また、日本ではカバー入手はいささか困難である。コイル・切手帖はない。



ロートリンゲン加刷 1940.8.21 発行

ロートリンゲンでの加刷切手の発行は8月21日である。 種類、スタイル、使用期限など前のものと同じである。(エルザス加刷と同じ)違うといえばフランス切手使用禁止(8月20日)と加刷切手発行日がエルザス加刷より6日遅いことである。カタログ評価未使用で45マルク、使用済み55マルク、変種として加刷文字Lothringenのeがoとなっているものが30pf、50pfに存在する。コイル、切手帖はない。主要都市はメッツ、ナンシーである。


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