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ヒンデンブルク切手メモランダム


<第十一回>



 第1回  ヒンデンブルク切手とは
 第2回  ヒンデンブルク切手の年表
 第3回  ヒンデンブルクとはどういう男
 第4回  ヒンデンブルク切手登場
 第5回  メダル型シリーズ (1)
 第6回  メダル型シリーズ(2)
 第7回  メダル型シリーズ 鉤十字透
 第8回  メダル型シリーズ 鉤十字透(2)
 第9回  メダル型シリーズ 鉤十字透 続きの続き
 第10回  占領地消印について
 第11回  オステン加刷
 第12回  エルザス・ロートリンゲン加刷
 第13回  ルクセンブルク加刷・他


オステン加刷 1939.12.1より発行

ベルサイュ条約で東プロイセンは飛び地という形で本国から切り離されてしまった。国際連盟管理下の自由市―といっても実質ポーランド勢力下にあるダンチヒ市と幅60粁のダンチヒ回廊がドイツ本土と東プロイセンを隔てていた。海のないポーランドと外洋をつなぐためであった。

1938年10月24日ドイツは@ダンチヒのドイツへの返還A回廊内に治外法権の交通路を建設させることという要求をつきつけた。ミュンヘン会談の2週間後である。勿論ポーランドは拒絶したがそれで問題が解決したわけではない。むしろヒトラーに対してドイツとしてはあくまで平和的解決を試みたのだという口実を与えることになった。
要求から約1年後1939年9月1日ドイツ軍はポーランドに侵入、あっという間にポーランドは崩壊、28日にはソ連とポーランドを分割してしまった。

ポーランドという国は悲劇的な国家といわれているように昔からプロイセン、オーストリア、ロシアの三国の間で分割されたり集められたりというくにである。前には触れなかったがミュンヘン会談ではチェコから一部を取り戻したということもある甚だ複雑な領土変更が行われている。
そしてドイツ占領後も、ドイツ本土に編入された地区(ドイツ通貨使用)と総督府統治地域(ポーランド通貨グロチェン・ズロティ貨使用)に分割されることになった。
本土に編入されたのはダンチヒを含む回廊部分、ポーゼンなど西プロイセン(ワルテルランド)および南部のシレジェン(オルガ地区)で、いずれも第一次大戦でドイツから分離した地区でドイツ人の多い地域である。これらの地域は本国に復帰したのであるから当然のこととして本国切手が使用されることになった。

その他のクラカウ、レンベルグ、ルブリン、ラドム、ワルシャワ等のポーランド人居住地域は総督府Generalgouvernement統治地区として植民地支配が行われることになる。
旧ポーランド切手の使用は停止され、後述の加刷切手が12月から使用されることになるのだが、その発行前極く短期間本国切手が無加刷で1フェニヒ=2グロッシェンの計算で使用されたとミッヘルに記載されている。
この当時の本国切手とはヒンデンブルクメダルタイプであるから、ポーランドでは大分複雑な使われ方をしたことになる。
正規の総督府地区切手は1939年12月1日に8種、4日に5種計13種、ヒンデンブルク切手にOSTEN(東部の意味)の地名とポーランド通貨単位GroschenとZlotyを加刷したものが発行された。


  国名表示はDeutschePost OSTEN

額面数字は2Gr=1pfの割合である。本国のシリーズは17種であるが1pf、5pf、60pf、80pfは除かれている。
83年版ミッヘルではみしよう40マルク使用済み30マルクと大して高い物ではない。これらの切手は翌年40年9月30日限りで使用停止になったのであるから僅か10ヶ月の寿命であった。短命の割に評価が低いのは人気のないためであろうか。値段の割には使用済み、ことに地名の読めるものは入手し難いようである。

バラエティとしては24Grの加刷文字の欠落したものがあるとカタログに記載されている。なお切手帖、コイルの類はない。
一方の本国切手のほうであるが、この切手は前に述べたように敗戦時迄使うことが出来た。1941年にはヒトラータイプが発行されたから使用割合は減っていったと思われるが、ともかくこの方面の使用済みはある筈である。但しダンチヒとかポーゼンといった有名なところは直ぐわかるが、小都市の場合消印からこの地区のものかどうか見極めるのがむずかしい。
地図あるいは戦時中に発行されたドイツ郵便局名簿などを手がかりとして丹念に拾っていくほかない。小生も束物から探しているのだがあまり見つけ出していない。独ソ戦という激戦や戦後のドイツ分割といった悲劇の中で失われてしまったのだろうか。

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